第203話 しおりの帳面の秘密
夜営の火が落ちかけていた。
枯れ草の束を最後に一本くべると、炎が低く跳ね、三人の顔を橙に照らした。すぐ暗くなる。薪が足りない。この一帯は木が少なく、燃やせるものは草と、崩れた家屋の板切れだけだった。
風はないのに炎が揺れる。地面から這い上がる冷気が、火の根元を舐めていた。三人の影が地面に長く伸び、火が揺れるたびに影も揺れた。こよいの影だけが、巾着の膨らみを腰に載せている。
こよいはしおりの帳面を膝の上に置いた。
革の表紙が火の温度を吸い、布越しに温かい。あの崩れた建物の二階で見つけた油の地図を、もう一度確かめる必要があった。
「久遠、もう一回見せて」
久遠が義眼の蒼光を紙面すれすれに落とす。斜めの光が油の溝に影を作り、三つの円と繋がる線が浮かび上がった。霜里、星降町、海図の町。三角形の中心に、経蔵の印。
「ぼくたちは霜里を通った。星降町も。残りはひとつ」
「海図の町」
あさひが火の向こうから言った。膝の上に剣を横たえ、手入れをしている。欠けた刃先の断面を、砥石の代わりに滑らかな川石で撫でていた。研ぐのではない。断面の角を丸めている。もう強打はできない刃に、最後の手入れをしているのだ。川石が鋼を撫でる音が、炎の爆ぜる音の合間に響いた。規則正しく、淡々と。あさひの手元だけが、この夜で最も落ち着いていた。
「海図の町は名前がそのまま残ってる珍しい土地だ。地図屋が集まる町だった、と目録にはある」
久遠は帳面から目を離し、火の向こうを見た。蒼光が消え、義眼がふだんの暗い色に戻る。闇が戻ると同時に、こよいの目が火の残光に慣れ直すまで数秒かかった。その数秒の間、久遠の顔だけが義眼の余光で淡く浮いていた。
「だが目録の頁が薄くなってる。海図の町に関する情報は、あと数日保つかどうか。頁の端から白くなってきている。文字が紙に溶けていくんだ」
こよいは帳面の油地図に指を当てた。海図の町を示す三つ目の円。そこから経蔵へ向かう線は、他の線より細かった。しおりの油針が慎重に引いた、ためらいのある線。他の二本は一筆で描かれているのに、この一本だけ途中で何度か止まっている。線の溝が浅くなる箇所がある。迷ったのだ。
「しおりさん、ここだけ迷ってる」
こよいの指がその箇所を押さえた。久遠が蒼光を戻し、指の横から光を当てる。
「線が分岐している。行くか戻るか、判断がついていなかった可能性がある」
あさひが川石を止めた。
「行けなかったのか。それとも、行かないほうがいいと判断したのか」
三人の間に沈黙が落ちた。火が小さく爆ぜ、赤い粒が宙に散って消えた。
こよいは帳面を閉じかけて、気づいた。最後の頁の押し花——花弁が少しずれている。前に開いた時とは位置が違う。花弁の下に、もう一本の溝が隠れていた。花で隠されていた線だ。
「久遠、ここ」
花弁をそっと指で押さえたまま、蒼光を当ててもらう。線が浮かんだ。短い。海図の町の円から、別の方角へ伸びる細い枝線。行き先に印はない。ただ、線の終点にごく小さな×印が刻まれていた。
「行き止まりか、それとも危険の印か」
久遠が呟いた。蒼光の下で、×の溝は他の線より深かった。力を込めて押した跡だ。紙の裏側にまで凹みが届いている。しおりがこの印を刻んだとき、油針の先は紙を貫きかけていた。
あさひが剣を鞘に納め、火の残りを見つめた。
「しおりが力を込めて印をつけた場所だ。避けろってことか、見ろってことか」
こよいは巾着に手を当てた。布越しに、神々の脈が静かに揺れている。警告でも歓迎でもない。ただ待っている、という脈だった。こよいの指先が×印の上に戻った。油針の力が紙に残した窪みを、指の腹で撫でる。しおりの手の力が、紙を通してこよいの指に伝わる。怖かったのか。怒っていたのか。それとも、もっと別の感情だったのか。
「……行ってみなきゃ分からない」
こよいの声は小さかったが、揺れはなかった。
「海図の町へ行って、この×を確かめる。しおりさんが迷った場所で、ぼくたちが判断する」
久遠は帳面の溝を目録に写し取った。蒼光で線を辿りながら、目録の白紙の頁に指で痕をつけていく。情報の写し方を、しおりから学んでいた。墨ではなく、物理的な溝。消されない記録。
「写した。目録の文字が消えても、この溝は残る」
あさひが立ち上がった。剣の鞘が地面を叩き、短い音が夜の空気を裂いた。火が最後の一舐めをして、灰になった。煙だけが細く立ち昇り、星のない空に吸い込まれていく。
「明日、発つか」
「発つ」
こよいと久遠が同時に答えた。
帳面を胸にしまう。革の表紙の角が肋骨に当たり、硬い。その硬さが心地よかった。しおりが残した問いを、自分の胸で運んでいる。答えはまだない。でも、問いを持っている。それだけで、足は前に出る。
巾着が微かに脈を打った。温もりが腰元に広がり、こよいの手が無意識に紐を握った。小さな神たちも、明日を待っている。名前を守られたまま、こよいの腰で揺られながら。
星のない空の下で、三人は背中を寄せた。あさひの肩が硬い。久遠の背中が薄い。こよいは二人の間で、帳面の角を肋骨に感じたまま目を閉じた。明日の道は、しおりが迷った先にある。
振り返ると、おたまの三毛の背がすぐそばにあった。




