第020話 完全固定の提案
足が、動かなかった。
観測者の視線が、こよいを縛りつけている。
観測者は、ゆっくりと近づいてきた。
足音がない。地面を踏んでいるはずなのに、音がしない。
一歩。また一歩。
距離が詰まっていく。
こよいの呼吸が、浅くなる。脇腹に押し込んだ巾着から、神々の震えが掌を通って伝わってきた。
周囲の里人たちは、凍りついたように動かない。
逃げようとする者もいない。叫ぶ者もいない。
みんな、観測者を見つめている。見つめることしか、できないでいる。
足元の土が朝露で濡れて冷たい。逃げなければならないのに、膝が曲がらない。
「……見つけた」
観測者の声が聞こえた。
低く、平坦な声。抑揚がない。機械のような声。
「お前を、探していた。集め手」
集め手。
その言葉に、こよいの背筋が凍った。
知っている。この人は、こよいのことを知っている。
観測者は、こよいの三歩手前で止まった。
顔が、はっきりと見えた。
青白い肌。薄い唇。そして、灰色の目。
目だけが、異様に生きていた。観察する目。測る目。冷たく、正確な目。
「……だれ」
声が震えた。
「私は観測者だ」
観測者は、淡々と答えた。
「測る者。世界を、正しく記録する者」
手に持った道具が、かすかに光った。
コンパスのような形。金属製。先端が尖っている。
「……なにを、する」
「固定だ」
観測者の目が、こよいを捉えて離さない。
「お前も、固定してやろう」
固定。
しおりが言っていた言葉。長も言っていた言葉。
測られたら、固定される。動けなくなる。変われなくなる。
「……いやだ」
こよいは、後ずさった。
一歩。たった一歩。でも、足が重い。
足の裏に湿った土の冷たさが残った。もう一歩踏み出せそうになかった。背中の向こうに裏口がある。あと数歩。でも、体が動かない。
「逃げても無駄だ」
観測者は、追ってこなかった。
代わりに、ゆっくりと話し始めた。
「楽になれる」
その言葉に、こよいは足を止めた。
「固定されれば、苦しみから解放される」
「もう、重い荷物を持って歩く必要はない」
「神々を集める必要も、届ける必要もない」
「全てが、終わる」
観測者の声は、穏やかだった。
穏やかで、冷たい。
観測者はじっと動かない。まるで自分が測るための基準点のように、一点に定まっている。その静けさが、逆にこよいの足を奪っていた。
「完全固定だ」
観測者が、一歩近づいた。
「世界を、標本にする」
「揺らぎを消す。変化を止める」
「永遠に、そのまま。美しいだろう?」
こよいは、その言葉の意味を、少しずつ理解していった。
標本。
理科室で見た、動かない蝶。ピンで刺されて、ガラスの中に閉じ込められた蝶。
羽の模様は美しいまま。色も褪せない。でも、もう飛べない。風を感じることも、花の蜜を吸うこともない。
あれと、同じになる。
生きているのに、動けない。存在しているのに、変われない。
頬を撫でた風さえ、観測者の言葉に染まって冷たく感じられた。
「……なぜ」
こよいは聞いた。
「なぜ、そんなことを」
観測者は、首を傾げた。
人間らしい仕草。でも、どこか不自然だった。
「世界は、揺らぎすぎている」
「不確定なものが、多すぎる」
「神は生まれ、消え、移動する。定まらない」
「人は、迷い、変わり、死ぬ。予測できない」
「その不安定さが、世界を壊している」
観測者の目が、細くなった。
「私たちは、それを正す」
「全てを測り、全てを記録し、全てを固定する」
「そうすれば、世界は完璧になる」
「変わらない。壊れない。永遠に、そのまま」
その言葉が空気を押しのけ、里人は誰もが息を止めていた。
巾着が、氷のように冷たい。
祠の神と空き地の神が、震えている。
「……ちがう」
祠の神の声が、かすかに聞こえた。
「……それ、ちがう」
空き地の神の声も。
「……うごかない、せかい」
「……しんでる」
こよいは、巾着を握りしめた。
神々が、恐れている。でも、反論している。
動かない世界は、死んでいる。
その言葉が、胸に響いた。
握りしめた巾着の中で、二つの震えが重なっているのが分かった。恐怖だけではない。抗おうとする微かな意志。
「お前は、揺らぎを運んでいる」
観測者が言った。
「神々は、揺らぎそのものだ」
「お前が運ぶ限り、世界は揺らぎ続ける」
「だから、お前を固定する」
「お前と、お前の神々を」
道具が、また光った。
今度は、強く。
観測者の目も、光っている。
「どうだ」
観測者は、手を差し出した。
「楽になれるぞ」
「もう、歩かなくていい。悩まなくていい。失わなくていい」
「全てが、終わる」
その手は、冷たそうだった。
触れたら、凍ってしまいそうだった。
指は細く、白く、血の通っている気配がない。爪の先まで、完璧に整っている。人間の手のようで、人間の手ではない。
こよいは、その手を見つめた。
楽になれる。
その言葉が、少しだけ魅力的に聞こえた。
重い巾着。長い道。観測者から逃げ続ける日々。
全てが終われば、楽になれる。でも。
足元に落ちた自分の影が、朝日を背に観測者の足元まで伸びていた。動かない影が、二つの間を結んでいるようだった。
道標の神の顔が、浮かんだ。
「……わからない」
また会えるか、わからない。
あの言葉が、胸に刺さっていた。
「神雧」という言葉が、浮かんだ。
全ての神が、一箇所に集まる。
その日が来るまで、届け続ける。
それが、集め手の仕事だ。
固定されたら、届けられない。
届けられなければ、神々は集まれない。
集まれなければ、神雧は起きない。
こよいは、観測者の手を見つめた。
冷たい手。終わりの手。
「……断る」
その言葉が、口から出た。
震えていた。でも、はっきりと言えた。
その一言を口にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。重い紐が少しだけ緩んだような、小さな感覚。
観測者の目が、わずかに細くなった。
「……そうか」
声には、感情がなかった。
残念そうでも、怒っているようでもなかった。
ただ、事実を確認しただけのような声。
「なら」
観測者が、道具を構えた。
「力ずくだ」




