第019話 境を越える者
騒ぎで、目が覚めた。
外から、声が聞こえる。
複数の声。慌てた足音。叫び声。
何かが起きている。
こよいは、飛び起きた。
巾着を握りしめる。冷たい。昨夜より、ずっと冷たい。
「……きた」
祠の神の声が、緊張を孕んで聞こえた。
「……なにか、きた」
小屋を出ると、広場が騒然としていた。
里の人たちが、慌ただしく動いている。
子供たちを家に入れる者。荷物を抱えて走る者。
まだ朝日も弱いのに、誰もが起きている。
空気が違った。いつもの朝の穏やかさが消えて、代わりに張り詰めた緊張が里全体を覆っている。焚き火の煙が、灰色の空に吸い込まれていく。犬が一匹、尻尾を巻いて小屋の下に潜り込んでいた。
「何があったの」
近くにいた女に聞いた。
女は、青ざめた顔でこよいを見た。
「境を……境界を越えてきたんだ」
「誰が」
「観測者だよ。あいつらが来た」
観測者。
その言葉に、背筋が凍った。
汗が、背中を伝う。朝の冷気の中で、不釣り合いな熱だった。
しおりの言葉が、頭をよぎる。
「測る者が来てる。測られたら、固定される」
あの時聞いた警告が、現実になろうとしている。
広場の中央で、若い男が叫んでいた。
物見の役目をしていた者だ。
息が上がって、顔が青白い。
「第一境界を越えてきた!複数いる!」
「こっちに向かってる!」
人々のざわめきが、さらに大きくなった。
「逃げろ」「どこへ」「子供を隠せ」
声が、重なり合って混乱していく。
こよいは、地面に垂れた水が足首に跳ねるのを感じながら、長の家へ走った。
扉を開けると、長は既に起きていた。
囲炉裏の前で、厳しい顔をしている。
「長、観測者が」
「知っている」
長は、こよいを見た。
その目は、いつもより鋭かった。
「お前を追っているのだ」
その言葉に、こよいは息を呑んだ。
「……ぼくを」
「そうだ。あいつらの目的は、お前だ」
長は、立ち上がった。
「集め手は、観測者にとって邪魔な存在だ」
「お前が神を運ぶ限り、世界は『揺らいだまま』でいられる」
「それを、あいつらは許さない」
こよいの手が、震えていた。
巾着が、さらに冷たくなる。
「……どうすれば」
「逃げろ」
長の声は、迷いがなかった。
「今すぐ逃げろ。裏口から出て、第二境界を目指せ」
「あいつらは、この里には長くいられない。ここは境の向こうだからな」
こよいは、その言葉を咀嚼した。境の向こうなら観測者も居づらい。だが、自分はこの里の中にいる。逃げ道を探さなければならない。
「でも、お前が捕まれば終わりだ」
「捕まったら……」
「固定される」
長の目が、こよいを真っ直ぐに見た。
「お前も、神々も、全てが固定される」
「動けなくなる。変われなくなる。永遠に、そのまま」
それは、死より恐ろしいことのように思えた。
存在したまま、動けない。変われない。
標本のように、固められる。
「……分かりました」
こよいは、頷いた。
喉の奥が渇いていた。嚥り込む唾が粘り気を持つ。
「逃げます」
長は、小さく頷いた。
「裏口から出ろ。森の中に獣道がある」
「それを辿れば、名無しの谷に出る」
「谷を越えれば、第二境界だ」
こよいは、長に頭を下げた。
床の土の冷たさが、額に伝わってきた。
「ありがとうございました」
「礼はいい。急げ」
小屋に戻り、荷物をまとめた。
食料。水。最低限のもの。
時間がない。
指が震えて、干し肉を包む布が扱いづらい。二度目でようやく縛った。
巾着を確認した。
祠の神と空き地の神が、中にいる。
「……いく」
祠の神の声。
「……はやく」
空き地の神の声。
「うん。行こう」
荷物を背負い、巾着を懐に押し込んで、裏口へ向かった。
背中の重みが、いつもよりずっと大きく感じる。
里の人たちが、道を開けてくれる。
誰もが、こよいを見ている。
不安そうな目。心配そうな目。でも、誰も止めない。
一人の老婆が、手を合わせていた。その指先が白い。
裏口の木戸が見えた。古い木の扉が、朝の薄明かりの中で白く浮かんでいる。
その向こうに、森がある。
広場の方角から、風に乗ってかすかな金属音が響いた。それが観測者の道具の音なのか、ただの風鳴りなのか、こよいには区別できなかった。だが、足を速めた。
あと少し。あと少しで、逃げられる。
こよいは手を伸ばした。木戸のくさびに指が触れかけた。
その時だった。
「……いる」
祠の神の声が、震えた。
「……もう、ここに」
こよいは、立ち止まった。
振り返った。
広場の端に、誰かが立っていた。
里の人ではない。
見たことのない姿。
暗い色の服。測量士のような格好。
手には、金属製の何か。コンパスのような道具。
顔は、無表情だった。日の光の下にいるのに、その体には影が落ちていない。
感情が読めない。人形のような顔。でも、目だけがこよいを見ていた。
冷たい目。観察する目。測る目。
こよいは息を止めていた。吐き出せば、見つかる。そう思えた。
その瞳には、何の感情も映っていなかった。怒りも、喜びも、悲しみも。ただ、対象を認識しているだけ。標本を前にした研究者のような、無機質な注視。こよいは、自分が人間としてではなく、何かの数値として見られていることを、本能的に理解した。
周囲の音が、遠ざかった。
人々のざわめきが、聞こえなくなった。
空気が、急に冷えた。吐く息が白くなる。真夏のはずなのに、肌が粟立ち、指先の感覚が薄れていく。
振り返れば走れるはずだった。裏口まで十歩もない。だが、こよいの体は観測者の方角に向いたまま動かなかった。視線に縛られているのではなく、自分の足で立ち止まっていた。
観測者だ。
巾着が、氷のように冷たい。
神々が、震えている。
「……にげて」
空き地の神の声が、かすれた。「……はやく」でも、足が動かない。
観測者の視線が、こよいを縛りつけている。
見られている。測られている。
観測者が、一歩踏み出した。
ゆっくりと。確実に。
こよいに向かって。もう、目の前にいる。




