第199話 観測者の墓場、ふたたび
前にも来たはずだった——最初の一歩で、こよいはそう錯覚した。
立ち並ぶのは墓石ではなく、折れた計器と、割れた測定板と、回収されなかった目録の残骸。観測者の墓場。白紙になる前の写しに、この場所の頁があった。久遠が旅の途中で幾度か語った、記録の通りの風景が、いま目の前にある。地面に突き刺さった観測杭の並びも、倒れた塔の角度も、聞いた記憶と一致する。
初めて来たのに、二度目のようだった。
けれど、違う。
「……動いてる」
久遠が短く言った。義眼の蒼光が砂の表面を舐めるように走る。光が触れた計器の表面に、細かい振動の跡が浮かんだ。砂紋が同心円を描いている。何かが地中で律動しているのだ。
写しの記録では、すべてが静止していた。冷たく、乾き、音もなく横たわる、死んだ場所——弔うこともできない、ただの残骸の野として記されていた。
今は違う。空気が温い。鉄の匂いに混じって、かすかに湿った土の匂いがする。地面に手を触れると、砂の下にぬるい熱があった。体温より低く、外気より高い。生き物の温度ではない。機械が動くときに発する、あの摩擦の熱だった。
砂に半ば埋もれた計器が、かすかに揺れていた。文字盤の硝子は割れ、砂が吹き込んで目盛りの半分を埋めている。それでも針は動いていた。わずかに——本当にわずかに——左右に振れている。振れ幅は爪の先ほど。錆びた軸受けが、甲高い音を立てた。蚊の羽音より細い音が、砂の上を這うように広がる。こよいが耳を近づけると、針が振れるたびに内部で何かが擦れる音がした。乾いた砂粒が歯車に挟まって、じゃりじゃりと軋んでいる。動くはずのないものが動くとき、音はひどく生々しい。
倒れた観測塔の根元で、真鍮の歯車がひとつ、ゆっくり回転していた。動力源は見えない。ぜんまいはとうに解けきっているはずだ。歯の欠けた歯車が、それでも噛み合う相手を探すように回っている。隣にもうひとつ、小さな歯車が転がっていた。こちらは動かない。真鍮の表面が緑青に覆われ、歯がすべて丸く磨り減っている。回る歯車と回らない歯車が、指三本の距離で並んでいた。
こよいは足元を見た。
砂の中で、細い線が動いている。虫ではない。文字だ。誰かの名前の断片が、土の表面で身をよじるように蠢いている。指一本分の太さもない筆跡が、砂粒を押しのけて浮き沈みしている。光は持っていない。ただ形だけが、土の中でもがいていた。
「名前が……まだ抜け出そうとしてる」
声が震えた。名前は音を持たない。それでも砂を掻くしぐさが、声を上げているように見えた。
あさひが剣の柄に手をかけ、すぐに離した。
「斬れば楽にしてやれる。……けど、斬ったら終わりだ」
誰も答えなかった。砂の上で名前の線が、まだ弱く蠢いている。楽にすることと、終わらせることが同じだと、三人とも分かっていた。
墓場の中を歩いた。足音を殺して、壊れたものの間を縫うように。踏みそうになるたびに足を止め、避ける。計器の破片、目録の切れ端、ひび割れた硝子管。砂に埋もれた天秤の片腕が、わずかに上下していた。皿の上には何も載っていない。何も載っていないのに、均衡を取ろうとするように揺れている。こよいの足が近づくと揺れが大きくなり、離れると収まった。
硝子管の中に、液体が残っていた。赤黒い液が管の底に溜まり、ゆるやかに揺れている。こよいが屈んで覗くと、液面に自分の顔が小さく映った。映った顔が、わずかに遅れて動く。こよいが目を瞬いた後、液面の顔がそれを追うまでに、呼吸ひとつぶんの間があった。
おたまも隣から液面を覗き込んだ。猫の姿は、遅れなかった。こよいの顔は呼吸ひとつぶん遅れたのに、おたまの瞬きは、液面と本体がぴたりと同時だった。測る仕組みの中でさえ、この猫だけは測られていない。
墓場の奥に、倒れた標識があった。板の表面に観測者の公印が押されている。封蝋の跡が割れて残る、正式な封鎖を示す符号だった。蝋の破片が砂に散らばり、踏むと靴底で乾いた音を立てた。ここは閉じられた場所だ。公的に、永久に。
だがその上から、別の手が文字を刻んでいた。細く、浅く、爪か石の先で引っ掻いたような線。公印を跨ぐように、斜めに走っている。
久遠が膝をつき、蒼光を当てずに読んだ。肉眼で読めるほど、刻みは深かった。刻んだ者の指先が相当な力で押しつけたのだろう、板の木目を断ち切るように線が走っている。
「——『まだ終わっていない』」
短い一文が、墓場の空気をわずかに変えた。風の温度が一度だけ上がった気がした。計器の針が、その瞬間だけ大きく振れた。
こよいは巾着を胸に抱き寄せた。硝子の神が弱く脈打っている。死んだはずの場所に残された、生きた言葉に反応するように。
「ここで、ぼくたちは何をすればいい?」
久遠は立ち上がり、膝の砂を払った。
「何もしない」
間を置いて、続けた。
「正しい行動が見届けることだけの場所がある。ここはそうだ。俺たちが触れれば壊れる。壊さないために、見る」
久遠の声は静かだったが、言葉の輪郭は硬かった。観測者の道具を前にして、観測することだけを選ぶ。それが久遠なりの弔いなのだと、こよいは思った。
あさひは何も言わず、壊れた計器のひとつに膝をついた。触れはしない。だが、その計器をじっと見ている。歯車がまだ回っていた。力もなく、意味もなく、それでも止まらずに回っていた。歯が欠けた部分を通過するたびに、かちりと小さな音がした。規則正しく、何かを数えるように。あさひの呼吸がその間隔に合っていることに、こよいだけが気づいた。
風が吹いた。砂が舞い、計器の表面を薄く覆う。覆われてもなお、針は揺れていた。砂の粒が針の先端に積もり、重みで振れ幅が小さくなる。それでも針は止まらない。砂の下から、名前の線がまだ蠢いている気配があった。
こよいは立ったまま、墓場の端から端までを見渡した。壊れたものたちが、壊れたまま動いている。針が揺れ、歯車が回り、天秤が傾き、硝子管の液が揺れている。観測者はもういない。けれど観測者が作った仕組みだけが、主を失くしてなお回り続けている。測るものがなくても測ろうとする。記録する者がいなくても、数値を刻み続ける。その律儀さが、こよいの胸を締めた。
「墓場は踏み荒らす場所じゃねえ。通り過ぎる場所だ」
あさひが低く言った。こよいは頷いた。巾着の神々が、穏やかな間隔で脈を打っていた。
三人は墓場を後にした。砂を踏む足音が三つ、揃わないまま重なる。背中の方から、歯車の音がまだ聞こえていた。かちり、かちり。針の揺れる音。天秤の軋み。壊れたものたちの合奏が、砂の墓場に留まり続けている。遠くなっても、止まる気配はなかった。




