第200話 凍てつく通り
星降町の中心部は、凍ることも流れることも忘れたまま佇んでいた。
霜里とは違う。ここでは氷が半ば溶けかかったまま時を止め、表面を薄い水膜が覆って揺れている。凍結と融解のあいだで宙吊りにされた町。どちらにも倒れられず、どちらにも戻れない。
石畳の隙間から水が染み出し、靴底を濡らした。霜里の冷たさは刺すようだったが、ここの水は違う。体温をゆっくり溶かし出す冷たさだった。骨から熱を抜かれるような感覚が足首を這い上がり、指先が痺れ、巾着の紐を握る力が鈍る。水膜がこよいの足の周りに集まった。体温に反応するように表面が波打ち、靴の縁に沿って薄い氷の環を結ぶ。立ち止まれば凍りつく。歩けば溶ける。どちらが正しいのか分からなかった。
おたまだけが、濡れなかった。同じ水膜の上を歩いているのに、猫の足の周りには氷の環も波紋も生まれない。町の理が、猫の四つ足だけを数え損ねている。
通りの両側に並ぶ家屋の屋根には、霧が綿のように積もっていた。軒先から氷柱が垂れ、灯籠の蒼白い光で虹色に光る。溶けた雫が石畳を叩く音だけが、等間隔に響いていた。どの家も戸を閉ざし、障子の向こうに明かりはない。人が住んでいた気配だけが、水膜の下に薄く沈んでいる。
灯籠は通りの左右に交互に置かれていた。火ではない。蒼白い光が硝子の箱の中で揺らめいている。風がないのに揺れるのは、光そのものが呼吸しているからだった。灯籠の根元に水が溜まり、光を映して青白い水溜りを作っている。三人が近づくと光がわずかに強まり、通り過ぎると弱まった。生きた人間の体温を感じ取っているように。
通りの奥に氷の段が聳えていた。灯籠の光を受けて鈍く輝き、段の一つひとつに記録が滲んでいる。文字ではない。名前だったものの残骸が、氷の内側で凍りついたまま浮かんでいた。中には形を保っているものもある。二文字、三文字の輪郭が氷越しに透けて見え、光が当たるたびに色を変えた。橙から藍へ、藍から灰色へ。色を失いかけている名前ほど、氷の深い場所に沈んでいた。
こよいは息を吐いた。白い靄になった。霜里では、白い靄は結晶にならずに、ただほどけて消えた。ここでは違う。靄は消えもせず凍りもせず、口元でしばらく漂ってから、水膜の中に吸い込まれた。ほどけることも、固まることも許されない。呼吸すら、この町は宙吊りにする。
遠くで拍子木の音が途切れた。
自分の心臓の音だけが、耳の奥で大きくなった。
氷の段から震えが伝わってくる。石畳を通って、足の裏から身体の芯まで。声ではない。名前を呼ばれなくなった者たちの、凍った呼気だった。段の奥から、低い震えが間隔を置いて繰り返される。地鳴りのように太く、けれど呼吸のように規則正しい。神々の吐息が氷の底に溜まり、溶けきれずに揺れているのだ。
こよいの耳の奥で何かが鳴った。音ではない。名前の残響だった。氷の段に封じられた声が、水膜を介してこよいの足裏から這い上がり、骨を伝って鼓膜の裏側を叩いている。ひとつではなかった。幾重にも重なり、押し合い、こよいの耳の中で渦を巻いている。知らない名前のはずだった。それなのに喉が締まる。呼びたい、と身体が勝手に反応する。胸の奥で何かが共振し、肋骨の内側が震えた。
久遠は目録に義眼を凝らしていた。蒼い光が書き戻した文字を浮かべるたびに、指先が震える。額に汗が滲み、前髪から落ちた一滴が頁に染みを作った。
「名前の共鳴現象だ。氷が不完全に溶けている区域では、封じられた名前が周囲の生きた名前を引き寄せようとする。——呼べば、こちらの名前が先に削られる」
久遠の声は低く抑えられていたが、いつもより早口だった。義眼の蒼光が頁の上を忙しく走っている。この場所が久遠にとっても安全ではないのだと、こよいは初めて気づいた。
あさひは剣の柄に手を添え、通りの奥を見ていた。足元の影が灯籠に合わせて伸び縮みするのを、目の端で追っている。
「呼ぶな」
短かった。だが声の底に、自分にも言い聞かせるような硬さがあった。あさひの耳にも、氷の底の声は届いているのだ。
こよいは巾着を握った。呼びたい名前がある。氷の段の奥で凍えている声が、喉元まで迫り上がってくる。巾着の中の神々が脈打ち、掌に伝わる振動が名前の残響と重なった。唇が勝手に形を作ろうとする。舌が口蓋に触れた瞬間、歯の根元が痺れた。名前を発する直前の、あの甘い痛み。
唇を噛んだ。血の味がした。痛みが名前を押し戻す。舌の上にあった音の形が崩れ、喉の奥へ沈んでいく。
「……分かってる。でも、聞こえるんだ。氷の底から」
声は小さかった。震えていた。雨の神が温もりを返した。こよいの指先から、少しだけ冷えが退く。神々の脈動がこよいの心拍と重なり、呼吸がひとつ深くなった。喉の奥に詰まっていた名前が、すこしだけ遠ざかる。消えたわけではない。ただ、もう少しだけ待てるようになった。
「呼ぶな。だが——応えるのは、呼ぶのとは違う」
久遠が言った。
「応える?」
「霜里の律動を、神々はもう持っている。凍った名前の拍だ。同じ拍を返してやれば、氷の底の声は、忘れられていないことだけを知る。名前を口にしなくていい」
こよいは巾着を両手で包み、あの白銀の拍を思い浮かべた。神々が応え、布越しに硬く澄んだ一拍が、通りへ静かに広がった。
氷の段の震えが、変わった。引き寄せる揺れから、頷くような揺れへ。呼び声の渦が緩み、耳の奥の圧がゆっくりと引いていく。凍ることも溶けることもできない名前たちに、待つ理由だけが手渡された。
涙が石畳に落ちた。
触れた場所だけ氷が溶け、小さな水溜りができた。水膜が涙の波紋を吸い込み、一瞬だけ温かい色を帯びて消えた。氷の段の奥で、名前の残骸がかすかに揺れた。涙の温度に反応したのか、それとも——こよいの中にある名前を呼ぶ力に、応えようとしたのか。
しばらく、誰も動かなかった。
あさひが壁から背を離した。剣の柄を握り直す。
「行こう」
先頭に立ち、歩き出した。足音が石畳の氷を踏み、硬く響く。迷いのない足音だった。氷の段が震えようと、名前が呼ぼうと、この足は止まらない。こよいはそれを知っていた。涙の跡が残る頬のまま頷き、久遠は目録を閉じた。
三人の足音が通りの奥へ向かった。灯籠の光が揺れ、影が伸びる。氷の段に染み込んだ記録が、三人の足音に合わせて微かに震えていた。
背後で灯籠の光が一つずつ弱まっていく。三人が通り過ぎた場所から順に、蒼白い光が細くなり、やがて消えた。水膜が足跡を覆い、歩いた痕跡を静かに消していく。
こよいは一度だけ振り返った。通りはもう暗かった。灯籠の光が消えた場所に、氷の段だけが鈍く残っている。その奥で名前たちが揺れている気配が、水膜を通じてまだ足裏に伝わっていた。
町は三人を通しはした。だが受け入れたわけではなかった。




