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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第7章 灯の距離

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197/282

第197話 記録の間引き

挿絵(By みてみん)


霧列車(きりれっしゃ)が動き出すと、窓の外の景色が()がれ始めた。


 最初は色だった。

 建物の壁に塗られていた赤茶が薄くなり、灰色に変わり、やがて白くなる。次に形。屋根の輪郭(りんかく)がぼやけ、窓枠(まどわく)が溶け、壁そのものが霧に混じっていく。

 色を失い、形を失い、最後に影だけが残る。その影さえも、列車が通り過ぎるころには消えていた。

 音も同じだった。列車が近づく前は、遠くで何かが(きし)む音がしていた。風に揺れる看板か、外れかけた戸板(といた)か。それが近づくほど小さくなり、通り過ぎるときには沈黙だけが残った。音が止んだのではない。音の出どころが消えたのだ。


 「漂白(ひょうはく)してる」


 久遠(くおん)が窓の外を見ながら言った。声に感情がない。


 「古い記録を()がしている。町ごと。……掃除だ。観測者(かんそくしゃ)にとっては、ただの掃除なんだろう」


 窓の外を、光の粒が流れていた。

 ()がれた記録の残骸(ざんがい)だった。文字でも音でもない、ただの光の(ちり)。かつて誰かの名前だったもの、誰かの暮らしだったものが、意味を失って(ただよ)っている。粒と粒は混じり合い、元がどの記録だったのかもう分からない。名前も暮らしも地名も、同じ光に溶けてしまえば等しくただの(ちり)だった。


 こよいは窓硝子(まどがらす)(ひたい)を当てた。硝子(ガラス)は冷たい。光の粒が硝子(ガラス)の向こうを横切るたび、粒の中に一瞬だけ何かが見える気がした。顔のようなもの。家のようなもの。けれど目を()らす前に流れ去る。

 額を当てた硝子(ガラス)から、温度が抜けていった。冷たさではない。温度そのものが消えている。触れているはずの面が遠くなり、こよいは反射的に額を離した。硝子(ガラス)は曇りもしなかった。呼吸の跡すら残さない。


 列車は空白の平野を走っていた。

 町があった場所だ。地面は平らに(なら)され、建物の土台すら残っていない。ただ白い(すな)が広がり、風紋(ふうもん)だけが模様を描いている。風紋(ふうもん)は記録ではない。風が作って、風が消す。何も残らない場所。

 平野の途中に、川の痕跡(こんせき)があった。水は流れていない。川底だったはずの(くぼ)みだけが白い(すな)の中に走り、その(くぼ)みも列車が近づくにつれて浅くなり、やがて地面と区別がつかなくなった。川だったという記憶さえ、ここでは保てない。


 あさひは座席に深く座り、腕を組んで目を閉じていた。眠っているわけではない。窓の外を見ないようにしているだけだ。


 「見てると、引っ張られる」


 あさひは目を閉じたまま言った。


 「消えていくものを見続けると、自分の輪郭(りんかく)まで薄くなる気がする」


 おたまは、その窓辺で眠っていた。

 流れていく光の(ちり)に一番近い場所で丸くなり、微動だにしない。猫の輪郭は薄れなかった。窓から差す白い光の中で、三毛の(ふち)だけがくっきりと濃い。消えていくものたちの隣で、この猫だけが、世界に深く根を張っている。


 久遠(くおん)目録(もくろく)(ひざ)の上で開いた。

 (ページ)をめくる。指が止まる。もう一度めくる。また止まる。

 三枚目で、紙と紙のあいだに隙間がなくなっていた。薄くなった(ページ)同士が貼りつき、久遠(くおん)爪先(つまさき)が慎重に端を()がす。


 こよいは久遠(くおん)の手元を見た。久遠(くおん)の指先が、(ページ)の上で迷っていた。普段の久遠(くおん)にはない動きだった。


 「……どうしたの」


 「薄くなっている」


 久遠(くおん)(ページ)を持ち上げた。

 光に()かすと、文字が見えた。見えたが、裏の(ページ)の文字と重なって読めない。紙そのものが薄くなっていた。一枚だった紙が、半分の厚さになっている。


 「列車がこの区間を通るたびに、書き戻した情報が削られる。紙が薄くなるんじゃない。俺が記憶から書き付けた文字の層が、一枚ずつ()がされている」


 久遠(くおん)(ページ)をめくった。

 次の(ページ)は、さらに薄かった。そして、その次。


 白紙だった。


 久遠(くおん)の指が止まった。

 つい先刻まで文字が並んでいた(ページ)が、何も書かれていないかのように白い。久遠(くおん)(ページ)を指でなぞった。凹凸(おうとつ)もない。インクの痕跡(こんせき)もない。完全な白紙。


 「……霜里(しもざと)の地下水路の地図が、あった(ページ)だ」


 久遠(くおん)の声は低く、静かだった。怒りではない。喪失を確認する声だった。


 「もうない」


 こよいは久遠(くおん)の横顔を見た。

 義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)が揺れている。久遠(くおん)は白紙の(ページ)を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 さらに数頁(すうページ)をめくる。白紙。白紙。途中に一行だけ残った(ページ)があり、久遠(くおん)の目がそこで止まった。だが文字は端から(にじ)んでいて、読み終わる前に意味が崩れた。久遠(くおん)は黙って(ページ)を閉じた。


 列車が揺れた。

 窓の外を、また光の粒が流れていく。()がれた記録。()がれた名前。()がれた地図。全てが同じ光の(ちり)になって、風に散る。


 こよいは窓に手を当てた。

 硝子(ガラス)越しに、光の粒が指先をかすめていく。触れられない。(つか)めない。ただ流れていくだけ。

 指先が(しび)れた。冷えではなかった。指の輪郭(りんかく)曖昧(あいまい)になる感覚。自分の手が硝子(ガラス)に溶けていくような錯覚に、こよいは手を引いた。指はそこにある。五本とも揃っている。けれど一瞬、自分の手が自分のものでないような、薄い(まく)を一枚挟んだような隔たりがあった。


 「忘れさせるんじゃないんだ」


 こよいは(つぶや)いた。


 「最初から無かったことにするんだ。……町も、道も、地図も」


 久遠(くおん)は白紙の(ページ)を閉じなかった。

 開いたまま(ひざ)の上に置き、白紙を見つめ続けた。失われた地図の形を、目の裏に焼き付けるように。


 あさひが目を開けた。


 「次の町は、まだあるのか」


 久遠(くおん)は答えなかった。

 答えられないのではない。答えが、今この瞬間にも変わり続けているからだ。

 目録(もくろく)の背表紙に触れた久遠(くおん)の指が、そっと離れた。本の厚みが、乗車したときより薄い。(ページ)の枚数が変わったわけではない。一枚一枚から情報の重みが抜けて、全体が軽くなっている。久遠(くおん)はそれ以上、目録(もくろく)を開かなかった。


 列車は走る。

 窓の外では、世界が一枚ずつ薄くなっていく。光の(ちり)が霧に混じり、霧が風に溶け、風が何も運ばなくなる。

 こよいは巾着(きんちゃく)を握った。神々の温もりだけが変わらない。(てのひら)の中で脈打つ小さな熱が、さっき薄れかけた自分の輪郭(りんかく)(つな)ぎ止めている。ここにいる、とこよいは思った。まだ、ここにいる。

 列車の振動が足裏に伝わり、車輪の音だけが続いていた。

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