第197話 記録の間引き
霧列車が動き出すと、窓の外の景色が剥がれ始めた。
最初は色だった。
建物の壁に塗られていた赤茶が薄くなり、灰色に変わり、やがて白くなる。次に形。屋根の輪郭がぼやけ、窓枠が溶け、壁そのものが霧に混じっていく。
色を失い、形を失い、最後に影だけが残る。その影さえも、列車が通り過ぎるころには消えていた。
音も同じだった。列車が近づく前は、遠くで何かが軋む音がしていた。風に揺れる看板か、外れかけた戸板か。それが近づくほど小さくなり、通り過ぎるときには沈黙だけが残った。音が止んだのではない。音の出どころが消えたのだ。
「漂白してる」
久遠が窓の外を見ながら言った。声に感情がない。
「古い記録を剥がしている。町ごと。……掃除だ。観測者にとっては、ただの掃除なんだろう」
窓の外を、光の粒が流れていた。
剥がれた記録の残骸だった。文字でも音でもない、ただの光の塵。かつて誰かの名前だったもの、誰かの暮らしだったものが、意味を失って漂っている。粒と粒は混じり合い、元がどの記録だったのかもう分からない。名前も暮らしも地名も、同じ光に溶けてしまえば等しくただの塵だった。
こよいは窓硝子に額を当てた。硝子は冷たい。光の粒が硝子の向こうを横切るたび、粒の中に一瞬だけ何かが見える気がした。顔のようなもの。家のようなもの。けれど目を凝らす前に流れ去る。
額を当てた硝子から、温度が抜けていった。冷たさではない。温度そのものが消えている。触れているはずの面が遠くなり、こよいは反射的に額を離した。硝子は曇りもしなかった。呼吸の跡すら残さない。
列車は空白の平野を走っていた。
町があった場所だ。地面は平らに均され、建物の土台すら残っていない。ただ白い砂が広がり、風紋だけが模様を描いている。風紋は記録ではない。風が作って、風が消す。何も残らない場所。
平野の途中に、川の痕跡があった。水は流れていない。川底だったはずの窪みだけが白い砂の中に走り、その窪みも列車が近づくにつれて浅くなり、やがて地面と区別がつかなくなった。川だったという記憶さえ、ここでは保てない。
あさひは座席に深く座り、腕を組んで目を閉じていた。眠っているわけではない。窓の外を見ないようにしているだけだ。
「見てると、引っ張られる」
あさひは目を閉じたまま言った。
「消えていくものを見続けると、自分の輪郭まで薄くなる気がする」
おたまは、その窓辺で眠っていた。
流れていく光の塵に一番近い場所で丸くなり、微動だにしない。猫の輪郭は薄れなかった。窓から差す白い光の中で、三毛の縁だけがくっきりと濃い。消えていくものたちの隣で、この猫だけが、世界に深く根を張っている。
久遠が目録を膝の上で開いた。
頁をめくる。指が止まる。もう一度めくる。また止まる。
三枚目で、紙と紙のあいだに隙間がなくなっていた。薄くなった頁同士が貼りつき、久遠の爪先が慎重に端を剥がす。
こよいは久遠の手元を見た。久遠の指先が、頁の上で迷っていた。普段の久遠にはない動きだった。
「……どうしたの」
「薄くなっている」
久遠は頁を持ち上げた。
光に透かすと、文字が見えた。見えたが、裏の頁の文字と重なって読めない。紙そのものが薄くなっていた。一枚だった紙が、半分の厚さになっている。
「列車がこの区間を通るたびに、書き戻した情報が削られる。紙が薄くなるんじゃない。俺が記憶から書き付けた文字の層が、一枚ずつ剥がされている」
久遠は頁をめくった。
次の頁は、さらに薄かった。そして、その次。
白紙だった。
久遠の指が止まった。
つい先刻まで文字が並んでいた頁が、何も書かれていないかのように白い。久遠は頁を指でなぞった。凹凸もない。インクの痕跡もない。完全な白紙。
「……霜里の地下水路の地図が、あった頁だ」
久遠の声は低く、静かだった。怒りではない。喪失を確認する声だった。
「もうない」
こよいは久遠の横顔を見た。
義眼の蒼光が揺れている。久遠は白紙の頁を見つめたまま、しばらく動かなかった。
さらに数頁をめくる。白紙。白紙。途中に一行だけ残った頁があり、久遠の目がそこで止まった。だが文字は端から滲んでいて、読み終わる前に意味が崩れた。久遠は黙って頁を閉じた。
列車が揺れた。
窓の外を、また光の粒が流れていく。剥がれた記録。剥がれた名前。剥がれた地図。全てが同じ光の塵になって、風に散る。
こよいは窓に手を当てた。
硝子越しに、光の粒が指先をかすめていく。触れられない。掴めない。ただ流れていくだけ。
指先が痺れた。冷えではなかった。指の輪郭が曖昧になる感覚。自分の手が硝子に溶けていくような錯覚に、こよいは手を引いた。指はそこにある。五本とも揃っている。けれど一瞬、自分の手が自分のものでないような、薄い膜を一枚挟んだような隔たりがあった。
「忘れさせるんじゃないんだ」
こよいは呟いた。
「最初から無かったことにするんだ。……町も、道も、地図も」
久遠は白紙の頁を閉じなかった。
開いたまま膝の上に置き、白紙を見つめ続けた。失われた地図の形を、目の裏に焼き付けるように。
あさひが目を開けた。
「次の町は、まだあるのか」
久遠は答えなかった。
答えられないのではない。答えが、今この瞬間にも変わり続けているからだ。
目録の背表紙に触れた久遠の指が、そっと離れた。本の厚みが、乗車したときより薄い。頁の枚数が変わったわけではない。一枚一枚から情報の重みが抜けて、全体が軽くなっている。久遠はそれ以上、目録を開かなかった。
列車は走る。
窓の外では、世界が一枚ずつ薄くなっていく。光の塵が霧に混じり、霧が風に溶け、風が何も運ばなくなる。
こよいは巾着を握った。神々の温もりだけが変わらない。掌の中で脈打つ小さな熱が、さっき薄れかけた自分の輪郭を繋ぎ止めている。ここにいる、とこよいは思った。まだ、ここにいる。
列車の振動が足裏に伝わり、車輪の音だけが続いていた。




