表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第7章 灯の距離

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
195/313

第195話 名前を捨てる神

挿絵(By みてみん)


半分砂(すな)に埋もれた(ほこら)の奥に、(くぼ)みがあった。


 人ひとりが座れるほどの空間で、壁は滑らかに磨かれている。砂嵐(すなあらし)にさらされた外壁とは違い、内側だけが丁寧に整えられていた。誰かがここで長い時間を過ごした痕跡(こんせき)だった。

 (ほこら)の外は乾いていた。風が(すな)を巻き上げ、肌を刺す冷たさがある。けれど(くぼ)みの中に入ると、空気が変わった。外の風が届かない。壁の石が薄い(ぬく)もりを帯びていて、こよいの頬に触れる空気がほんの少し柔らかい。砂漠(さばく)の中に、ここだけ別の季節がある。誰もいないはずなのに、誰かの体温が残っているような場所だった。

 あさひが入り口に背を向けて立ち、外を見張った。砂風と(ほこら)の境目で、あさひの髪が半分だけ揺れている。外の冷気と内の温もりが、あさひの背中を境にして分かれていた。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)(くぼ)みの奥へ向けた。

 壁面に文字がある。だが文字というより、爪で引っ()いた線に近い。浅い溝が何本も走り、重なり合っている。


 「読めるか」


 あさひが壁を覗き込んだ。


 「読めない。文字じゃない。……これは、名前を削った跡だ」


 久遠(くおん)の声が硬くなった。

 義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)が壁面を()めるように走る。溝の深さ、角度、重なりの順序を読み取っている。


 「観測者(かんそくしゃ)()がされたんじゃない。自分で削っている。一画ずつ、意図的に」


 こよいは息を飲んだ。


 「自分で……?」


 「ああ。この溝は外から加えられた力じゃない。内側から、繰り返し同じ場所をなぞっている。消すために。自分の名前を、自分で」


 こよいは壁の溝に指を近づけた。触れる前に、指先が震えた。削り跡は深い場所と浅い場所がある。最初の一画は浅い。迷いがある。二画目はさらに浅く、途中で止まりかけている。けれど三画目から深くなり、四画目には壁の石が白く粉を吹くほどの力が込められていた。迷って、迷って、それでも最後は自ら決めたのだ。自分の名前の画を、一本ずつ。


 巾着(きんちゃく)が冷たくなった。

 こよいは胸元を押さえた。神々の脈動が急に弱くなっている。温もりが引いていく。(おび)えている。巾着(きんちゃく)の中の小さな神たちが、壁の(くぼ)みから(ただよ)うものに(おび)えている。

 名前を奪われる恐怖なら、神々は知っている。けれどこれは違う。自分から名前を手放すという選択の痕跡(こんせき)に、神々は震えていた。理解できない。名前を守ってほしくて巾着(きんちゃく)の中にいる彼らには、名前を捨てるという行為が、存在そのものへの否定に映るのだろう。


 名前を捨てた神。

 観測者(かんそくしゃ)に奪われたのではなく、自ら手放した神。

 こよいにはその選択が理解できなかった。名前は、自分が自分であるための証だ。こよいがしおりの名前を探しているのも、名前がなければしおりに会えないからだ。それなのに、自分で消すとは。追われることが、名前を持つことより辛かったのか。それとも、名前の重さそのものに耐えられなくなったのか。


 久遠(くおん)は目を閉じ、記憶を辿(たど)った。白紙になる前の写しに、確かに在った(ページ)。失われた文字を、久遠(くおん)は覚えていた。


 「記録があった。……名称不明の小神、自発的名称放棄。観測対象から除外。以降、追跡不能」


 久遠(くおん)は目を開けた。


 「観測者(かんそくしゃ)は名前を持つものしか測れない。名前を捨てれば、観測の網から消える。……だが、同時に、誰の記憶にも残れなくなる」


 あさひが腕を組み、壁にもたれた。


 「逃げたってことか」


 「逃げた、というより……消えることを選んだ。観測されず、記録されず、呼ばれることもない場所へ」


 久遠(くおん)の声に、普段にない揺れがあった。

 こよいはそれに気づいた。久遠(くおん)の分析の枠組みが、この事実を上手く収められずにいる。名前を守るために戦う相手なら分かる。名前を奪う観測者(かんそくしゃ)も分かる。けれど、名前を自ら捨てる神は、久遠(くおん)目録(もくろく)のどこにも載っていない。

 目録(もくろく)は名前を記すためのものだ。名前を持たぬことを選んだ者は、記す欄がない。分類できない。久遠(くおん)の指が、閉じた目録(もくろく)の表紙を無意識に撫でていた。


 三人とも、しばらく黙った。外から吹き込む砂風は入り口で途切れ、(ほこら)の中の温もりが沈黙を包んでいた。

 (ほこら)の奥から、微かな風が吹いた。

 外の砂風とは違う。(ぬる)い。(すな)の匂いもしない。壁の石が吐く息のような、古くて柔らかい風だった。


 こよいは壁に手を当てた。

 冷たいはずの石が、(てのひら)の下で温かった。(ほこら)の外壁は砂風に(さら)されて凍えているのに、この内壁だけが別の温度を持っている。呼吸のようなものが、壁の向こうにあった。吸って、吐いて。遅く、深く。名前を削り取った石の下で、何かがまだ息をしている。


 「……いる」


 こよいは(ささや)いた。


 「名前はないけど、まだ、ここにいる。壁が温かい」


 おたまが、するりと(くぼ)みの奥へ入った。誰かが長い時間を過ごした形に、猫の身体はぴったりと収まり、低く喉を鳴らし始める。その音は、石の呼吸と同じ拍だった。

 巾着(きんちゃく)の冷たさが、少しだけ(やわ)らいだ。

 神々は(おび)えたまま、けれど壁の温もりに反応して、微かに脈を打ち始めた。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を伏せた。壁から目を逸らし、目録(もくろく)を胸に抱えた。


 「名前がなければ記録できない。記録できなければ、俺の目録(もくろく)にも残せない。……こいつは、俺の手の届かない場所にいる」


 あさひが久遠(くおん)の肩を叩いた。短く、一度だけ。


 「届かないなら、届かないまま覚えておけ。それで充分だろう」


 こよいは壁から手を離した。

 (てのひら)に温もりが残っている。名前のない神の息が、皮膚の奥に染みていた。名前を捨てても消えなかったもの。それが何なのか、こよいにはまだ分からない。けれど確かに温かかった。


 (ほこら)を出ると、(すな)混じりの風が真正面から頬を叩いた。外は乾いて冷たい。(ほこら)の中のあの柔らかさが嘘のように、風は容赦なく肌を削る。一歩、外に出ただけで、肌の温度が奪われていく。けれど、(てのひら)だけがしばらく温かいままだった。石の呼吸が(てのひら)に染みて、外の冷たさを弾いている。

 あさひが先に歩き出した。無言だった。久遠(くおん)が続く。こよいは巾着(きんちゃく)を握り、二人の後を追った。

 振り返らなかった。名前のない神は、振り返られることを望んでいない。ただ、忘れないでいることだけが、今できる礼儀だった。

 (すな)を踏む三人分の足音だけが、乾いた地面に刻まれていく。(てのひら)の温もりが薄れるまで、こよいは何も言わずに歩いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ