第194話 風の織機《しょっき》
町の外れに、それは立っていた。
音が先に届いた。まだ姿が見えないうちから、乾いた金属の唸りが風に乗って三人の足を止めた。弦を弾くのとは違う。空気そのものが薄く裂けるような、不吉な音だった。
巨大な木枠が、空に向かって両腕を広げるように聳えている。高さは五丈はあった。横木に渡された無数の糸が風に揺れ、糸の一本ごとに乾いた音が鳴る。
織機だ、とこよいは思った。
けれど布を織るためのものではない。糸のように見えたのは、細い金属線だった。錆びて赤茶けた線が、風を受けて震えるたびに、低い唸りを上げる。線と線の間を風が通り抜けるとき、空気が裂ける音がした。鋭く、薄い。刃物が紙を断つような音が、何十本も重なって空に響いていた。
枠の根元には砂が吹き溜まり、木肌は日に焼けて白く褪せている。長い年月、ここに立ち続けてきた証だった。
こよいは足を止め、耳を押さえかけた。音が痛い。鼓膜の奥ではなく、頭蓋の内側に直接触れるような振動だった。風向きが変わるたびに音の高さが揺れ、こよいの平衡感覚を掻き乱した。
おたまだけが、平気な顔をしていた。三毛の猫は枠の斜め前——音と音がぶつかって打ち消し合う、たったひとつの静かな点を選んで座り、毛づくろいをしている。猫の耳は、人よりずっと聡いはずなのに。
「記録を風に変える装置だ」
久遠が義眼の蒼光を枠に向けた。
「名前を糸に通して、振動に変換する。織り込まれた記録は風になって散る。……戻せない形にするための機構だ」
あさひが枠の脚に近づき、指で触れた。
瞬間、腕から肩へ振動が走り、歯の根まで響いた。あさひは手を引き、指先を見つめた。痺れが残っている。指先の皮膚が白くなり、なかなか色が戻らない。
「……まだ動いてやがる」
壊れている、と思っていた。
横木の何本かは折れ、金属線も半数以上が切れて垂れ下がっている。だが枠の芯には、まだ微かな震えが宿っていた。風が吹くたびに残った線が鳴り、制御を失った音が四方へ散る。切れた線の先端が砂地に垂れて、風のたびに地面を引っ掻いた。砂に細い筋がいくつも刻まれている。何日も、何月も繰り返されたのだろう。筋は深く、乾いた溝になっていた。
こよいは耳を澄ませた。
音の中に、何かが混じっている。高い音と低い音の隙間に、人の声に似た響きがあった。名前だ。名前の残響が、風に溶けきれずに漂っている。
金属線が震えるたびに、その残響はほつれた。糸から解かれるように、音が細くなり、薄くなり、空気に混じっていく。
「聞こえる……」
こよいは巾着を胸に押し当てた。
神々が脈打つ。速い。巾着の布越しに、小さな震えが伝わってくる。神々が、織機の振動に反応していた。
『……おなじ、おと』
巾着の奥から、か細い声が届いた。
神々が知っている周波数だった。神の名前を糸に通し、風に変えるための周波数。神々は、かつてそれを受けた側だったのかもしれない。
こよいは巾着を握る力を強めた。布の下で神々が身を寄せ合うように震えている。怖がっているのではない。懐かしがっているのだ。自分たちの名前が、かつてこの周波数で解かれたことを、覚えている。
久遠が義眼を細め、枠の構造を読み取っていた。蒼光が金属線を一本ずつ辿り、折れた横木の接合部を照らす。
「単純な破壊装置じゃない」
久遠は枠を見上げた。
「線の太さが一本ずつ違う。音の高さを変えるためだ。名前の構造に合わせて振動を調律し、一画ずつ解いていく」
あさひが眉を寄せた。
「丁寧に壊すって意味か」
「丁寧に消す、だ。風は掴めない。瓶にも閉じ込められない。……凍らせるより巧妙だ。名前を空気そのものに溶かしてしまえば、取り戻す手段がない」
風が強く吹いた。
切れた金属線が暴れ、不協和な音が弾ける。枠全体が軋み、横木の接合部から砂粒が散った。こよいは耳を塞ぎたくなったが、塞げば名前の残響も聞こえなくなる。両手で巾着を握り、歯を食いしばった。風が髪を叩き、砂が頬を刺す。それでも目を開けていた。
音の中に、子どもの名前があった。
輪郭はもう崩れかけている。けれど、呼びかけの抑揚だけが残っていた。誰かがその子を呼んだときの、声の形。母親の声だったのか、それとも友の声か。抑揚の丸さが、幼い名前をかつて包んでいた温もりを伝えていた。
あさひが枠の前に立ち、腕を組んだ。
「壊すか」
「壊しても、もう散った名前は戻らない。……それに、止め方を間違えれば、もっと悪い」
久遠は義眼の蒼光で、張り詰めた金属線の根元を指した。
「残った線には、まだ解きかけの名前が張り付いている。線を一斉に断てば、張力が抜けた瞬間に全部が千切れて散る。弛める順番を計算する道具も時間も、今はない」
それでも久遠は屈み込み、切れて垂れた線のうち、地面を引っ掻いていた数本を岩の下に押さえ込んだ。それだけで、空気を裂く音がわずかに減った。全部は止められない。だが放ってもいかない。帰りに封じる対象として、目録の余白に織機の位置を書き付けた。その指先が、わずかに白い。
「凍らせただけじゃなかったんだ」
こよいは呟いた。声が震えた。
「名前を空気に溶かして、誰にも掴めないようにした。……ここは、そういう場所だったんだ」
風が止んだ。
一瞬だけ、織機の音が消えた。金属線が弛み、垂れ下がり、何も鳴らない。静寂が耳に押し寄せた。頭蓋の中で反響していた振動が、急に消えて、代わりにこよい自身の脈拍が聞こえた。
その静寂の中で、巾着の奥で風の神が一つだけ、強く脈打った。
名前の残響が、最後の一音を空に放ち、消えた。風がなければ鳴らない。風がなければ散らない。その一瞬の凪の中で、名前の欠片がほんの一息だけ、空中に留まった。そしてまた風が吹き、攫っていった。
こよいは巾着を額に当て、目を閉じた。
風が織機を軋ませる。音は続く。
散った名前は戻らない。それでも、こよいの耳の奥には、子どもを呼ぶ声の形が残っていた。消えないうちに覚えておく。それだけが、今できることだった。
三人は織機に背を向け、風上へ歩き出した。
十歩ほど離れても、乾いた金属の音は背中を叩き続けた。二十歩で少し弱くなり、三十歩で風の音に紛れ始めた。けれど完全には消えなかった。空気の底に、薄く、細く、名前の振動が溶け残っている。
こよいは一度だけ振り返った。織機の木枠が、砂色の空を背に黒く立っていた。まだ揺れている。風がある限り、あの装置は名前を散らし続ける。
こよいは前を向き直し、少し歩く速度を上げた。巾着が腰で揺れるたびに、神々の温もりが腰骨に届いた。




