第193話 足音の化石
町を出て少し歩くと、地面が変わった。
砂ではない。硬い。靴底が当たると、乾いた音が返る。こん、こん、と。歩くたびに足の裏から脛まで衝撃が伝わった。こよいはしゃがみ込み、地面を掌で撫でた。冷たく、滑らかで、薄い板のような感触がある。砂粒が押し固められて、石とも土とも違う、硬い層を成していた。
指の腹に微かな凹凸が引っかかる。撫でる向きによって感触が変わった。何かの跡だ。こよいは掌をゆっくりとずらし、凹凸の輪郭をなぞった。
その層の上に、足跡があった。
くっきりと。石に押された型のように。
「化石だ」
久遠が声を低くした。
「足音の化石。歩いたという記録が、漂白される前に固まった」
足跡は一人分ではなかった。大小さまざまな型が重なり、ある場所では足の向きが揃い、別の場所では乱れている。走った跡。立ち止まった跡。引きずった跡。層を成す足跡の中には、片方だけのものもあった。もう片方が地面ごと剥がれたのか、右足だけが孤立して残り、次の一歩の行方は誰にも分からない。
あさひが足跡の幅を見た。
「子どもだな。この小さいの」
こよいの視線が、その小さな足跡に吸い寄せられた。
五本の指が開き、かかとが丸く、歩幅は短い。裸足だ。草履の跡ではない。素足の指が地面を蹴った力が、そのまま石に刻まれている。親指のつけ根が深く沈み、他の指は浅い。地面を掴むように歩く、幼い子ども特有の踏み方だった。
こよいは膝をつき、足跡の横に手を置いた。
小さい。こよいの掌と、ほとんど同じ大きさだった。
膝の下の石が冷たい。その冷たさが膝から腿を伝い、腰に届く。かつてこの子も同じ冷たさを裸足で踏んだのだ、と思うと、足裏がじんと痺れた。
足跡はまっすぐ続いていた。走っている。何かに向かって、あるいは何かから逃げて。一歩、二歩、三歩。歩幅が伸びる。速くなっている。
四歩目で、途切れた。
こよいの指が、空を撫でた。三歩目の足跡の先を辿った指先が、急に何もない平面に触れた。足跡が刻まれるはずの場所に、ただの滑らかな断面がある。
足跡の先に、何もない。踏み出した右足の型が半分だけ残り、つま先の方は地面ごと欠けていた。割れ目が横に走り、板状の地面が裂けている。半分だけ残った右足は、つま先に向かって力を込めた形で止まっている。蹴り出す直前の、あの一瞬。割れ目の中に、白い粉が溜まっていた。
「文字の粉だ」
久遠が割れ目に義眼を向けた。蒼光が白い粉を照らす。
「名前を構成していた文字が、物理的に壊されて粉になっている」
こよいは割れ目を覗き込んだ。白い粉は細かく、砂糖のようにさらさらとしている。風が吹けば散ってしまうほど軽い。息を殺した。自分の呼気ですら粉を飛ばしてしまいそうで、胸の奥が痛くなった。これが、名前だったもの。
こよいの声が掠れた。
「この子は……歩いている途中で、消えたの」
久遠は黙って頷いた。
「記録が中断されている。足跡の途中で漂白が入った。歩いている最中に、名前ごと消された。本人には、知覚する間もなかっただろう」
こよいは座り込んだまま動けなかった。四歩目の、半分だけの足跡。右足のつま先が地面を蹴ろうとした瞬間。次の一歩を踏み出そうとした、その途中で。この子は何を見ていたのだろう。走りながら前を見ていたはずだ。五歩目の着地点を、目がとらえていたはずだ。その景色ごと、消された。
巾着が脈打った。温かく、強く。布を通して腰骨に届くほどの鼓動だった。神々が中で揺れている。こよいは巾着に手を当て、掌で温もりを受け止めた。
神々が何かを感じている。この足跡の主の、残された名前の欠片を。
こよいは小さな足跡の横に、自分の手を置いた。指を広げ、地面に押し当てる。掌の下の石は冷たく、硬く、かつてここを走った子どもの体温など残っていない。
だが、掌を当てたまま耳を澄ますと、何かが伝わってきた。
声ではない。音でもない。地面の下から、振動が届く。足が地面を蹴る衝撃の、残響のようなもの。微かだが確かにある。掌の皮膚の下、骨に直接触れるような細い震え。完了しなかった一歩の力が、石の中に閉じ込められたまま、まだ震えている。
こよいの目に涙が滲んだ。視界が歪み、四歩目の足跡が揺れた。
「……まだ、歩こうとしてる」
声が震えた。掌の下の振動が、自分の鼓動と区別がつかなくなっていた。
あさひが剣の柄を握り直した。顔は動かさず、割れ目の向こうを見ている。
「戻すぞ」
短い声だった。怒りでも悲しみでもない。刃物のように硬い、決定だった。
久遠が膝をつき、義眼の蒼光を割れ目に沈めた。光が白い粉の層を透かし、読み取った結果を、開いた目録の余白へ手早く書き付けていく。
「この化石の下に、記録の層がある。足跡は蓋だ。蓋の下に、中断された名前が沈んでいる」
「開けられるのか」
「壊せば出る。だが壊し方を間違えれば、粉ごと散る。濡らすしかない。固まった記録を、ほどく」
こよいは巾着を見た。神々がまだ脈打っている。温もりが掌を通じて指先に届き、指先から地面に伝わっていく。
「ぼくに、できることがある」
「神々の力を使うつもりか」
「使うんじゃない。届けるんだ」
こよいは掌を足跡の上に戻した。巾着の温もりが腰から腕を伝い、指の先から石に触れる。半分だけの右足の、かかとの窪みに指先が重なった。白い粉がかすかに湿り、割れ目の縁がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
あさひは黙って立ち、二人の背中を守るように外を向いた。剣の柄に置いた指が白く、力が込められている。背中越しに、あさひの呼吸だけが聞こえた。深く、静かに、怒りを飲み込む呼吸だった。
風が止んでいた。砂も動かない。空気だけが静かに震えている。
こよいの掌の下で、石がかすかに温もった。四歩目の、半分だけの足跡。その窪みに温もりが溜まり、石の色がほんの少しだけ変わった。乾いた灰色が、湿った灰色に。
完了しなかった一歩の振動が、神々の脈動と重なり、ほんの少しだけ強くなった。
やがて、湿った石の表面に、名前の最初の一画だけがゆっくりと浮かんだ。それ以上は浮かばない。溶けた名前は、全部は戻らない。けれど四歩目の途中で断たれた一歩は、一画分だけ、歩き直した。
石の中の震えが、静かになった。もがく振動ではなく、眠り直す呼吸に変わっていた。それを確かめてから、三人は立ち上がった。
おたまは小鈴を鳴らさず、三人の後をついてきた。




