第017話 最初の別れ
森の道を、さらに歩いた。
案内人の若者は、相変わらず寡黙だった。でも、時々振り返って、こよいの様子を確認してくれる。
足取りは、まだ重い。
巾着は、鉛のように腰を引っ張っている。でも、先人の墓を見た後、どこか気持ちが変わっていた。
貪るな。
その言葉が、頭の中で繰り返されている。
届けることが、仕事だ。抱え込むことが、優しさじゃない。
三十分ほど歩いた頃、森が開けた。
突然、視界が広がった。
円形の空き地だ。
直径は十五メートルほど。苔と細かい草が地面を覆っている。
大きな杉の木が、空き地を囲むように立っている。
その中央に、石の壇があった。
「ここだ」
案内人が、初めて足を止めた。
「最初の置き場所だ」
こよいは、息を呑んだ。
石壇は、円形だった。直径は三メートルほど、高さは腰の半分ほど。
灰色の自然石で作られていて、苔がところどころに生えている。
中央に、浅い窪みがあった。
夕日が、木々の隙間から差し込んでいた。
橙色の光が、石壇を照らしている。
窪みの部分だけが、ほんのり光っているように見えた。
「あの窪みに、置け」
案内人が言った。
「そこが、神の居場所だ」
こよいは、ゆっくりと石壇に近づいた。
足が震えている。
緊張なのか、疲労なのか、分からない。
巾着を見下ろした。
三柱の神が、その中にいる。
祠の神。空き地の神。そして、道標の神。
「……だれを」
空き地の神の声が、かすかに聞こえた。
「……おく」
祠の神の声も。
こよいは、考えた。
誰を、最初に置くべきか。
道標の神は、最後に拾った。一番新しい。でも、一番弱っている。
祠の神と空き地の神は、もう少し持ちこたえられそうだ。
巾着の底で、道標の光が弱く明滅していた。他の二柱とは明らかに違う。もう、引き留めてはいられない。
「……みち」
道標の神の声が、途切れ途切れに聞こえた。
「……ここ、いい」
「……ここに、いたい」
こよいは、決めた。
「分かった」
巾着の口を開けた。
手を入れると、淡い光が指先に触れた。
冷たかった。でも、どこか温かさもある。
光を、そっと持ち上げた。
拳ほどの大きさ。淡い黄色。檸檬のような、弱々しい光。
それが、道標の神だった。
窪みの縁に指を沿わせ、光をゆっくりと底へ降ろした。石がひんやりと指先に触れた。
その瞬間。
光が、広がった。
窪みから、祭壇全体へ。金色の光が、石の表面を這うように広がっていく。
温かい。手のひらに、温もりが伝わってくる。
「……ここ」
道標の神の声が、初めてはっきりと聞こえた。
「……あたたかい」
光は、さらに広がった。
祭壇を越えて、苔の地面にまで。
夕日と混じり合って、空き地全体が金色に染まった。
そして、体が軽くなった。
膝が、ガクンと緩んだ。でも、今度は崩れ落ちる重さじゃない。
重荷が取れた時の、あの感覚だ。
肩が、楽になった。
腰が、伸びた。
呼吸が、深くなった。
「……軽い」
こよいは、呟いた。
「……軽くなった」
巾着を握りしめた。
まだ重い。けれど、体が押し潰されそうな圧迫感は消えている。
祠の神と空き地の神が、静かに中にいる。少しだけ、息をする余裕が戻っていた。
「……よかった」
祠の神の声が聞こえた。
「……らく、になった」
空き地の神の声も。
石壇の上で、光がゆっくりと形を変えていた。
広がっていた金色が、収束していく。
窪みの中に、沈み込むように。
掌に残った温もりが、だんだんと薄れていく。まるで手が離れていくみたいだった。
「……ありがとう」
道標の神の声が、静かに響いた。
「……つれてきて、くれて」
「……ここ、いい、ばしょ」
こよいは、石壇の前に立ったまま、光を見つめていた。
光は、どんどん小さくなっていく。
消えていく。
「……みち、まもる」
声が、遠くなっていく。
「……つづける」
「……ここで、ずっと」
胸が、きゅっと締まった。
寂しい。
重荷が取れて楽になったのに、寂しい。
「……ねえ」
こよいは、消えかけの光に向かって言った。
「……また、会える?」
光が、一瞬だけ揺れた。
返事のように。
「……わからない」
その言葉が、最後だった。
光は、完全に窪みの中に沈み込んだ。
そして、見えなくなった。
石壇は、元の灰色に戻っていた。でも、窪みの部分だけが、ほんのり温かい。
そこに、何かがいる気配が、かすかに残っている。
こよいは、長い間、石壇の前に立っていた。
夕日が沈み、空が茜色に染まっていく。
風が、木々を揺らした。
「……さよなら」
小さく呟いた。
声は、誰にも聞こえなかった。
案内人が、背後から声をかけた。
「里に戻ろう」
「日が暮れる前に」
こよいは、頷いた。
石壇に背を向けて、歩き出した。
三歩進んで、振り返った。
石壇は、夕暮れの中に静かに佇んでいた。
窪みの部分が、かすかに光っているように見えた。
見間違いかもしれない。でも、そう見えた。
「……また」
こよいは、もう一度呟いた。
「……いつか」
返事は、なかった。
わからない。
その言葉だけが、胸の中で繰り返されていた。
帰り道を歩きながら、こよいは巾着を握りしめていた。
まだ、二柱の神がいる。
祠の神と、空き地の神。
この二柱も、いつか届けなければならない。
届けることが、仕事だ。でも、届けるということは、別れるということだ。
重いから、届ける。
届けると、軽くなる。でも、軽くなった分だけ、寂しくなる。
集め手の仕事は、そういうものなのかもしれない。
拾って、届けて、手放す。
その繰り返し。
でも、置いた神は消えるわけじゃない。置いた場所で、また別の形をもち続ける。
巾着の中から、小さな声が聞こえた。
「……だいじょうぶ」
祠の神の声だった。
「……ぼくたちは、まだ、ここに、いる」
こよいは、巾着を握りしめた。
温かい。
さっきまでより、ずっと温かい。
「……うん」
答えた。
「……まだ、一緒にいよう」




