第016話 先人の墓
渓谷に、吊り橋がかかっていた。
古い木の板と、縄で作られた橋。
歩くたびに揺れ、下を見れば、遥か底に川が流れている。
こよいは、一歩ずつ、慎重に進んだ。
巾着が重い。体が重い。バランスを取るのが難しい。
崖の縁で震える足が板の上ではさらに頼りなく、指先が縄の隙間に食い込むほど握りしめた。
手すりの縄を握りしめながら、橋を渡った。
渡り終えた時、背後から声がした。
「よく渡れたな」
振り返ると、若者が立っていた。
境の里の人だ。見覚えがある。
「長に、お前を見守るよう言われていた。どこまで一人でやれるか、黙って見ていろとな」
若者は、少しだけ呆れたように息を吐いた。
「だが、道中で三柱目を拾うのは計算外だ。……見ていられなくて出てきた。置き場所まで、俺が案内人する」
案内人がいることに、こよいは少し安堵した。
一人で歩くのは、限界だった。
若者は、こよいの様子を見て、眉をひそめた。
「……重そうだな、それ」
「……うん」
「三柱か。よく持っていられるな」
森の中の道を歩いた。
若者は寡黙だった。必要なことしか話さない。でも、歩調をこよいに合わせてくれている。
途中で二度ほど休憩した。岩に腰を下ろすと、若者は水筒を差し出してくれた。こよいは一口飲み、残りを巾着の口に近づけた。中から微かな湿り気の反応があって、ほっとした。
二時間ほど歩いた頃、道の脇に何かが見えた。
石碑だ。
古い、苔むした石碑。
若者が、足を止めた。
「あれは、先人の墓だ」
こよいも、足を止めた。
墓。誰かが、ここで死んだのだ。
苔の匂いが湿って、空気がひんやりと頬を撫でた。
石碑に近づいた。
高さは、こよいの胸ほど。灰色の石に、文字が刻まれている。
表面は長い歳月で磨り減り、苔が隙間を埋めている。雨に打たれ、風に削られ、それでも倒れずにここに立ち続けていた。
上部には名前があったようだが、風化して読めない。
「集め手」という文字だけが、かろうじて残っている。
「昔の集め手だ」
若者が、静かに言った。
「優秀な人だったと聞いている。たくさんの神を救った」
こよいは、石碑を見つめた。
野の花が、供えられている。誰かが、今でも手入れをしているのだ。
「……どうして、ここに墓が」
「彼は、ここで死んだからだ」
若者の声が、低くなった。
「彼は、最後まで手放せなかった」
その言葉に、こよいは息を呑んだ。
「……手放せなかった?」
「そうだ。神を、一柱も置けなかった」
若者は、墓を見つめながら続けた。
「拾った神を、全部抱え込んだ。置き場所に来ても、手放せなかった」
「『もう少しだけ一緒にいたい』『まだ大丈夫だ』と」
「そうして、どんどん増えていった」
こよいの胸が、痛んだ。
それは、自分も感じていたことだった。
手放すのが、怖い。一緒にいたい。まだ大丈夫だと思いたい。
巾着を握る指に力が入りすぎて、爪が掌に食い込む。
「結局、彼は壊れた」
若者の声は、淡々としていた。
「自分も、神々も。巾着ごと、砕けたそうだ」
「抱え込みすぎて、耐えられなくなった。最後は、この道で倒れて、そのまま動かなくなった」
風が、木々を揺らした。
静かな森に、葉ずれの音だけが響く。
木漏れ日が、石碑の表面をゆっくりと移動していく。時間だけが、静かに流れている。この人が死んでからも、季節は巡り、木々は葉を落とし、芽吹き、また葉を落とした。何度も、何度も。
「……かなしい」
巾着の中から、かすかな声が聞こえた。
祠の神の声だった。
「……しってる、このひと」
「……やさしい、ひと、だった」
こよいは、巾着を握りしめた。
神々は、この人を知っていたのだ。
そして、その最期を見たのかもしれない。
石碑の下部に、文字が刻まれていた。
風化を免れた、はっきりとした文字。
「貪るな」
その三文字が、目に飛び込んできた。
貪るな。
欲張るな。抱え込むな。
「彼が死んだ後、里の人たちが刻んだ」
若者が言った。
「後から来る集め手への、警告だ」
こよいは、その文字を、じっと見つめた。
「貪るな」
それは、死んだ集め手が、自分の失敗を後悔して残した言葉なのかもしれない。
あるいは、里の人たちが、同じ過ちを繰り返させないために刻んだのかもしれない。
どちらにしても、その言葉は重かった。
自分に向けられた言葉のように感じた。
石碑を覆う苔が、指先からひんやりとした。
「……おぼえて、おいて」
空き地の神の声が、小さく聞こえた。
「……わすれないで」
こよいは、頷いた。
忘れない。この墓を。この言葉を。
そして、自分がこうならないように。
風が止んだ。静寂が、耳の奥で押し潰すように広がる。
墓の前で、しばらく立ち尽くした。
若者は、何も言わずに待っていてくれた。
口笛のように小さく鳥の声がして、若者がちらりと空を見上げた。日差しの角度が変わっていた。
やがて、こよいは歩き出した。
体は重い。巾着は重い。でも、少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。
手放すことは、悪いことじゃない。
届けることが、集め手の仕事だ。
抱え込むことが、優しさじゃない。
「……もうすぐだ」
若者が言った。
「あと少し歩けば、最初の置き場所に着く」
こよいは頷いた。置き場所。神を預ける場所。その言葉が、喉の奥で少しだけ熱くなった。
若者が先に歩き出し、木々の間に消えた道を指さす。こよいはその背を追い、まだ鈍い足を一歩ずつ前に出した。道の奥が少しだけ明るい。光が、木の葉越しに漏れている。
草の匂いが濃くなっていた。
こよいは、前を向いた。
道は、まだ続いている。でも、終わりが見えてきた。
「貪るな」
その言葉が、頭の中で繰り返されていた。
墓石に刻まれた、三文字。
死んだ集め手が残した、最後の教え。
こよいは、それを胸に刻んだ。
手放すことを、恐れるな。
届けることを、躊躇うな。
巾着が、ほんの少しだけ、温かくなった気がした。




