第015話 重さの限界
朝、空は曇っていた。
重い雲が、境の里を覆っている。
長と数人の里人が、見送りに来てくれた。
「気をつけて行け。道は険しいが、迷うことはない」
長の言葉に、こよいは頷いた。
「……ありがとうございました」
「礼は、戻ってきてから言え」
食料と水を少しだけ持ち、こよいは歩き出した。
巾着を腰に下げる。
重い。昨日より、確実に重くなっている。
「……いこう」
祠の神の声が聞こえた。
「……うん」
空き地の神の声も。
声は穏やかだった。でも、どこか張り詰めている気がした。
森の中の道を歩いた。
道は細く、落ち葉が積もっている。木の根が地面から浮き上がり、何度も足を取られそうになる。
光は少ない。木々が頭上を覆い、曇り空と相まって、昼なのに薄暗い。
一時間ほど歩いた頃から、巾着が肩に食い込み始めた。
紐が、鎖骨の上を圧迫している。
「……大丈夫?」
小声で聞いた。
「……うん」
祠の神の声。でも、少し途切れた。
「……すこし、くるしい」
足を止めた。
巾着を見下ろす。
見た目は変わらない。でも、重さが違う。
昨日まで片手で持てたものが、今は両手で支えないと持ち上がらない。
「……ごめん」
空き地の神の声が、かすれて聞こえた。
「……せまい、よ」
「……ぼくたち、おもい」
こよいは、首を振った。
「謝らなくていい。ぼくが、届けるから」
巾着を握りしめて、また歩き出した。
二時間が過ぎた。
腰が痛い。肩が痺れている。
足取りが、どんどん重くなっていく。
神々の声は、ほとんど聞こえなくなっていた。時々、かすかな呻き声のようなものが漏れるだけ。
膝の裏が痺れ、趾の感覚が遠い。下り坂で足を取られ、樹の幹に肩をぶつけてようやく体を保った。息が浅い。唇が乾いてひび割れ、舌が上顎に張り付く。
長の言葉が、頭をよぎった。
「抱え込むと、お前も神も壊れる」
「『まだ大丈夫』は、危険な言葉だ」
分かっている。でも、足を止めるわけにはいかない。
ここで立ち止まれば、神々はきっと余計に苦しむ。それだけは、避けたかった。
三時間目に入った頃、崩れた石積みが見えた。
道の脇、木々の間に、かつて何かだったものの残骸がある。
苔に覆われた石が積み重なり、その上に雑草が生い茂っている。
境界標だったのだろうか。それとも、小さな祠だったのか。
こよいは、足を緩めながら石を見つめた。この道を通る人は、いつからいなくなったのだろう。
足を止めた。
何かを感じた。
巾着が、震えている。
冷たい。急に冷たくなった。
石積みの隙間から、かすかな光が漏れていた。
消えかけの、弱々しい光。
こよいは、石に近づいた。
膝をついて、隙間を覗き込んだ。
何かがいる。
光の塊のような、小さな何か。
神だ。
「……だれ、か……」
声が聞こえた。
かすれて、途切れて、今にも消えそうな声。
「……みち、まもる、もの……」
「……わすれ、られた……」
道標の神だ。
旅人を守る、小さな神。
忘れられて、崩れた石の下で、消えかけている。
巾着の中から、祠の神の声が聞こえた。
「……こよい、だめ」
「……もう、いっぱい」
空き地の神の声も。
「……これいじょう、は」
分かっている。
分かっているのに。
こよいは、手を伸ばした。
石をどけて、光に触れた。
冷たかった。氷のように冷たい。でも、そこには確かに、生きようとしている何かがあった。
「……助けて」
その声が、胸を突き刺した。
こよいは、巾着の口を開けた。
「入って」
光が、ゆっくりと動いた。
巾着の中へ、滑り込んでいく。
布地が引っ張られ、こよいの指が痙攣した。冷たさが掌から腕へ、腕から肩へと這い上がる。
「……ありがとう」
かすかな声が聞こえた。
その瞬間、こよいの体に、重さが落ちてきた。
膝が、ガクンと折れた。
地面に手をついた。
呼吸ができない。胸が圧迫されている。
巾着が、鉛のように重い。
「……くるしい」
祠の神の声が、悲鳴のように響いた。
「……せまい」
空き地の神の声も。
「……はやく、おいて」
新しい声も、苦しそうに加わった。
こよいは、立ち上がろうとした。
足が震えている。全身が震えている。
なんとか立ち上がった。でも、一歩踏み出すのがやっとだった。
道を歩いた。
いや、歩くというより、引きずるように進んだ。
巾着の紐が、肩の肉に食い込んでいる。
頭がぼんやりする。視界が揺れる。
足元の落ち葉を踏むたびに、膝が折れそうになる。手で幹をつかんでは体を支え、また数歩を進める。それの繰り返しだった。
渓谷が見えてきた。
道が開けて、崖の縁に出た。
遠くで、水の音がする。
風が強くなっていた。崖の向こうから湿った空気が吹き上げ、頬と手の甲を冷やす。
こよいは、その場に座り込んだ。もう、一歩も動けない。
巾着を見下ろした。
三柱の神が、その中にいる。
祠の神。空き地の神。そして、道標の神。
みんな、苦しそうだった。
「……ごめん」
こよいは、呟いた。
「……ぼくが、欲張ったから」
「……ちがう」
祠の神の声が、途切れ途切れに聞こえた。
「……きみは、わるくない」
「……でも、はやく」
空き地の神の声。
「……このまま、だと」
新しい声が、小さく付け加えた。
「……みんな、こわれる」
こよいは、空を見上げた。
曇り空。重い雲。
どこにも、光は見えない。
崖の下から吹き上がる風が、濡れた髪を額に張り付かせる。
早く置かないと。
早く届けないと。
このままでは、全部壊れる。
巾着が、氷のように冷たい。
神々の声が、もう聞こえない。
こよいは、震える足で立ち上がった。
一歩。また一歩。
体が悲鳴を上げている。でも、止まれない。
置き場所は、もうすぐのはずだ。
そこに届けば、少しは楽になる。
そこに届けば、神を一柱、置いていける。でも、本当に間に合うのか。
本当に、このまま歩き続けられるのか。
巾着の中から、かすかな声が聞こえた気がした。
「……はやく」
それは、祈りのようだった。




