第124話 幻影の海
眠れなかった。
列車の揺れは規則正しく、座席の木が背中に当たる感触も、もう慣れていた。それでも眠れなかった。
目を閉じると、目録の頁に書かれていた文字が瞼の裏に浮かぶ。神々の製造記録。培養の手順。廃棄の条件。一つ一つの文字が、こよいの胸の奥を引っ掻いていた。
向かいの席で、あさひが壁に凭れて目を閉じている。
呼吸は浅く、眠りは浅い。剣を抱えた腕だけが力を抜かず、何かあれば瞬時に起きられる姿勢のままだった。
歪んだ刃が車内の暗がりの中でも鈍い光を放っている。経蔵で受けた傷が、刃の性質そのものを変えてしまったのかもしれない。
久遠は通路を挟んだ反対側の席で、窓に額を当てていた。
義眼の蒼光は消えている。目を閉じているのか開けているのか、暗がりでは判別できなかった。
懐の目録には手を触れていない。あの書物を開くたびに、久遠の身体から何かが削られていく。今は、休ませる時間だった。
こよいは巾着を膝の上に乗せ、布の上から掌を当てていた。
四柱の脈が、ゆっくりと同じリズムで動いている。目録が語った真実を知ってなお、彼らは生きている。呼吸し、脈打ち、温もりを返している。
掌の指先が、布の縫い目をなぞった。
真実が何であれ、この温もりは本物だ。こよいの掌が嘘を言うはずがない。
「……久遠」
小さく呼ぶと、窓から額が離れた。
「起きてたのか」
「眠れない」
久遠は身体を起こし、懐に手を入れた。目録には触れず、手をそのまま戻す。
「……三つの条件のこと、考えていた」
こよいは頷いた。
原初の術式。神々を解放するための三つの条件。二つは久遠が読み解いていた。
一つ目は、「名前の器」。二つ目は、「水脈の記憶」。
三つ目だけが、読めなかった。崩壊に巻き込まれ、最後の頁は手に入らなかった。
「……推測はある」
久遠の声が低く続いた。
「目録の記述は、三つ目の条件を指すとき、いつも同じ表現を使っていた。『還す者の手』。器でもなく、水脈でもなく、還す行為そのものに条件がある」
「還す者の手……」
「誰が還すのか。あるいは、どのような手で還すのか。そこが鍵になっている。だが、それ以上は今の情報では読み解けない」
あさひが目を開けた。
眠っていなかったのだ。天井を見たまま、低い声で言った。
「難しく考えるなよ。条件がわからなくても、探しに行けばいい。経蔵でもどこでも、行きゃわかる」
「行きゃわかる、では計画が立たない」
「計画通りにいったことがあったか? 月見台でも、経蔵でも、全部ぶっつけだったろ」
久遠は黙った。反論できないのだろう。計画を立てても全て崩れた。それでも三人は生きている。
こよいは巾着に目を落とした。
四柱の脈が布越しに伝わってくる。黙って聞いていたのだろう。自分たちのことを語る声を、巾着の底から。
「……聞いてもいい?」
巾着に向けて、囁いた。
沈黙が続いた。
列車の揺れと車輪の音だけが響いている。
こよいは掌の下で、四柱の脈を数えた。一つ、また一つ。間隔は揺れているが、止まる気配はない。
座席の木が軋み、窓硝子が微かに振動していた。
『……わからない』
雨の神の声だった。
細く、かすれて、けれど確かに聞こえた。
経蔵で真実を知ってから、神々はほとんど声を出していなかった。この声は、沈黙を破る最初の言葉だった。
『……でも、さがす。……いっしょに、さがす』
こよいの目が熱くなった。
涙は流さなかった。ここで泣いたら、神々が心配する。
唇を噛み、息を止め、それから静かに吐いた。
「……ありがとう」
巾着を胸に抱き寄せた。
結び目を指一本分だけ緩めると、雨の神の湿った温もり、月の神の冷たい光、硝子の神の微かな震え、風の神の細い息が順に指先へ届いた。同じ脈に重なっても、四柱はひとりずつ違う。
こよいはその違いを忘れないよう、ひとつずつに指で触れ、ほどけないようにもう一度結び目を整えた。
布越しに伝わる温もりが、いつもより少しだけ強い。四柱が、同じ場所から答えている。
窓の外は霧だった。
経蔵を出てからずっと、この霧が続いていた。距離は測れない。何を見ることもできない。列車が進んでいることだけが、車輪の音で知らされていた。
硝子に映る車内の光が、海の残照のように揺れている。霧の中に、時おり光の粒が浮かんでは消えた。
あさひが再び目を閉じた。
今度は本当に眠りに落ちたらしく、呼吸が深くなった。剣を抱えた腕の力が、わずかに緩む。
眠る直前、口の中で何かを呟いた。聞き取れなかったが、こよいには何を言ったか分かる気がした。
久遠は窓に凭れ直した。
義眼の蒼光は消えたままだった。今夜は、もう読むまいと思っているのだろう。
「……三つ目が見つからなくても、旅は止めない」
「うん」
「見つからないまま、見つけるまで行く。それでいい」
こよいは小さく頷いた。
久遠の声に、いつもの冷たさはなかった。
ただ疲れていて、ただ本当のことを言っている、そういう声だった。
列車は走り続けた。
車輪がレールを叩く音が、三人と四柱の呼吸の間に流れている。
巾着の中で、四柱の脈が穏やかに光った。
やがて久遠の呼吸も深くなった。
車内に起きているのは、こよいだけになった。
巾着を膝の上に戻し、両手で包む。
温かい。
この温もりを守るために、旅をしている。
何もわからなくても、この温もりだけは確かだった。
列車の音だけが、夜の中に響いていた。




