第125話 受容の静寂
意識が戻ってきた。
まだ暗い。
けれど、窓の外の闇の質が変わっていた。
真夜中の闇は重く、底がない。今の闇は薄い。どこかに光を隠している闇だった。
巾着が胸の上にあった。
四柱の脈は穏やかで、昨夜よりわずかに力が戻っている。
四つの脈が、眠りの中でも止まらずに動いていた。この脈が止まったら、こよいはきっと気づく。
こよいは上体を起こし、窓に顔を寄せた。
硝子に額が触れる。冷たい。その冷たさが額の熱を吸い、少しだけ頭が澄んだ。
外は霧だった。ただ、夜の白さとは違う。もう少し透明な、明け方の色をした霧だった。
白い霧の中に、ごくわずかに青が混じっている。夜が退き始めている証だ。
列車は走り続けている。
車輪の音の響き方が少し変わった気がする。車体を通して背中に伝わる振動が、昨夜より細かい。
向かいの席で、あさひが身じろぎした。
剣を抱えた腕が微かに動いたが、目は開かなかった。唇が半分開いて、小さな寝息が漏れている。
眠っている顔は年相応だった。起きているときの険しさが消え、頬の線が丸くなっている。
久遠は窓際で膝を抱えたまま眠っていた。
義眼の左目は閉じている。瞼の下で光が動く気配はなかった。
額に張り付いた前髪の間から、昨夜よりも血色の戻った肌が見える。短い睡眠でも、身体は回復しようとしている。
目録を懐に入れたまま、腕で胸を覆うように丸まっている。書物を守る姿勢だった。
こよいはそっと席を立ち、通路を二、三歩進んだ。
車窓から差し込む光は、まだ月のものだった。
けれど、霧の向こうにもう一つの光源がある。水平線の下に沈んだまま、まだ顔を出さない朝日の気配が、霧を内側からうっすらと染めていた。
通路の床板が足の裏に冷たい。列車の振動が足首を通って膝まで伝わった。
硝子の表面に、細かい水滴が浮かんでいる。指先で触れると、冷たい湿り気が爪の腹に残った。夜の間に窓に結んだ露だ。
巾着の中で、神々が一つ、ことりと揺れた。
こよいは立ち止まり、巾着を掌に乗せた。
『……あかるい……?』
雨の神の声が、糸のように細く聞こえた。
こよいは窓の外を見た。
まだ暗い。
けれど、霧の色は確かに変わっていた。白から、ごくわずかに青へ。夜が明ける前の、一番静かな色。
この色を見るのは、旅に出てから何度目だろう。けれど今朝の青は、これまでのどの朝とも違って見えた。
掌が、自然と巾着を握り直した。雨の神が目を覚ましたのだ。新しい朝がここから始まる。
「……うん。もうすぐ、明るくなると思う」
巾着の中で、月の神の銀光が揺らいだ。
四柱が同時に脈打った。昨夜までとは違う脈だった。何かを待っている脈。
真実を知った後の最初の朝を、神々も待っていたのかもしれない。
あさひの剣が、座席の上で微かに鳴った。
金属が空気に触れて震える、細く高い音。誰も触れていないのに、刃が自分で鳴っている。
刃の表面に、何かが変わり始めている。
こよいにはそれが何なのか分からなかったが、巾着の中の神々がその音に反応したのは確かだった。神々の脈が一つ跳ね、風の神が巾着の底で身をよじった。
四柱が同時に反応した。こよいは巾着を胸に引き寄せ、神々の脈の変化に耳を澄ませた。
「……なあ」
あさひが目を開けていた。
いつから起きていたのか分からない。
剣を見下ろし、眉を寄せている。
「こいつ、重くなった。昨日より。でも、嫌な重さじゃない」
こよいは剣を見た。
瞳を凝らすと、薄い紋様のようなものが浮かぶ。見つめると消え、視線を放すとまた現れる。
久遠が目を開けた。
義眼の蒼光が、弱く、けれど確かに灯っている。昨夜、自ら消したはずの光だ。
「……剣が変わり始めている。経蔵で受けた衝撃が、鋼の構造に影響を与えている」
「壊れるのか」
「壊れるんじゃない。……受け入れ始めているんだ。何をかは、まだ分からないが」
久遠は義眼を細め、また目を閉じた。
まだ分析する余力がないのだろう。義眼の光がゆっくりと消え、少年の顔に戻った。
久遠の呼吸が再び深くなるまでに、三拍かかった。その三拍の間に、こよいはあさひと久遠の顔を交互に見た。剣が変わり始め、義眼が光る。二人の持つものが、同時に揺れ始めている。偶然ではない。何かが、確かに動き出している。
こよいは席に戻り、巾着を膝の上に置いた。
窓の外の霧が、少しずつ薄くなっている。
白い霧の中に、光の筋が走り始めていた。朝日ではない。霧そのものが光を帯びているように見えた。
光の筋は窓硝子を斜めに横切り、車内の天井に淡い影を落としていた。その影が揺れるたびに、あさひの剣の鈍い光が明滅した。
隙間風が頬を撫でた。まだ先は見えない。
けれど、巾着の中の神々は脈打っている。あさひの剣は重くなり、久遠の義眼はまだ光を灯している。三人と四柱が、同じ列車の中にいる。
口を開きかけて、また閉じた。
あさひも久遠も、何も言わなかった。
窓の外で、霧の向こうに光が生まれ始めていた。
まだ夜明けではない。
夜明けの予感だけが、白い霧の中を走っている。
列車の揺れが、少しだけ変わった。
線路の継ぎ目を踏む間隔が短くなっている。速度が上がったのか、線路そのものが変わったのか。
振動の質が変わり、車体がわずかに軋んだ。
こよいは座席の縁を握り、身体のバランスを取り直した。足の裏に伝わる振動が、一定のリズムを刻み始めていた。
巾着の中で、四柱の脈が一つに重なった。
雨の神と銀光と硝子の光と風の息が、同じ拍を刻んでいる。
霧の向こうに、何かの気配。
まだ形も色も分からないが、確かに何かがある。
こよいは巾着を胸に抱き、窓の外を見つめた。
霧の先で、何かが動いた。




