第121話 真実の棚
しばらく、誰も動かなかった。
列車の揺れだけが荷物車の床を通して伝わり、積まれた木箱が微かに軋む。
天井板の節穴から、細い隙間風が降りてくる。その風が乾いた血の匂いを運んだ。あさひの腕の傷からだ。布で巻いてはいるが、滲んだ赤が包帯代わりの布切れを濃く染めている。
荷物車の闇は深かった。灯は一つもない。木箱の角と、壁の輪郭と、互いの呼吸だけが、この空間に三人がいることを証明していた。
久遠が壁に背中を預けたまま、ゆっくりと目を開けた。
右目だけだった。義眼のある左目は開かない。
「……左目が見えない」
「ずっと?」
「分からない。使いすぎた。しばらく休ませれば戻るかもしれない」
久遠の声は淡々としていたが、額の汗が乾いた跡と、左目の下に流れた黒い涙の筋が、彼の身体がどれだけの負荷に耐えたかを物語っていた。
黒い涙は義眼の術式が焼けた残滓だった。乾いた筋は頬の上で微かに光を帯び、古い墨で書かれた文字の跡のように見えた。
こよいはそれを見つめ、何か言おうとして、やめた。今は言葉より、静かにしていることのほうが必要だった。
あさひが木箱の一つを蹴り、蓋を外した。蓋が外れた拍子に、藁の埃が舞い上がった。埃が鼻をくすぐり、こよいは小さくくしゃみをした。その音が荷物車の中に妙に大きく響いて、三人の緊張を僅かにほぐした。
中に藁に包まれた陶器があった。壺か、瓶か。あさひは一つを手に取り、蓋を開けた。
「……水だ。飲めるかは知らんが」
匂いを嗅ぎ、一口含んだ。飲み込んだ。
「飲める。ぬるいが、まともな水だ」
久遠に渡し、こよいにも渡した。
こよいは水を一口飲んだ。喉の奥に沁みる。経蔵の乾いた空気で渇いていたことに、今さら気づいた。
水は土の味がした。地下を通ってきた水だ。鉄の匂いが僅かにあり、舌の上でひんやりと広がる。二口目を飲み、三口目で壺をあさひに返した。
巾着に水の気配が届いたのか、神々が小さく震えた。雨の神が水に反応している。こよいは壺の水を少しだけ指に取り、巾着の布に含ませた。布が水を吸い、神々の脈が一つ、深くなった。
「……術式は、本当に刻めたの?」
こよいが訊いた。
久遠は右目でこよいを見た。
「核心部分は全て本体に転写した。あの棚が崩れても、本体の書物が残る限り、原初の術式は消えない」
久遠の声に、微かな誇りが滲んだ。命を削って刻んだものへの、静かな確信だった。
「観測者がまた消そうとしたら?」
「俺が書いたのは、消去できない層だ。義眼でしか書けない深さに刻んだ。……代償がこの目だったわけだが」
久遠は左目に触れ、小さく息を吐いた。
その指先が微かに震えていた。普段の久遠なら、決して見せない弱さだった。義眼は彼の武器であり、盾であり、世界を読み解くための唯一の道具だ。それを失うかもしれないという恐怖が、指先の震えに滲んでいる。
あさひはそれを見ても何も言わず、壺の水をもう一口飲んだ。
こよいは巾着を膝に乗せた。
布越しに手を当てる。雨の神が弱く脈打っている。月の光は微かで、風の神は静かだった。
『……いたかった。……でも、ちゃんと、とどいた……』
雨の神の声が、布の奥から聞こえた。
何が届いたのか、こよいには分からなかった。だが神々の脈が、ほんの少しだけ安定した気がした。
月の光が巾着の中でほの白く灯り、硝子の神が微かな音を立てた。硝子の欠片同士が触れ合う、澄んだ音色。荷物車の木壁に反響し、一瞬だけ車内が柔らかい光に包まれた。
「……この子たちにも、何か伝わったみたい」
「当然だ。原初の術式は、神々を解放するための鍵だからな。術式が刻まれたことを、神々自身が感じ取ったんだろう」
あさひは壁に寄りかかり、腕を組んだ。
腕の傷に巻いた布が、乾いた血で茶色く固まっている。だがあさひは痛みを気にした様子もない。戦いの後の身体は、まだ興奮の残滓で麻痺しているのだろう。
「で、次はどうする。術式を手に入れたはいいが、使い方は分かってんのか」
「……目録の写しに手順が書いてあった。だが、文字が消えかかっている。鈴灯に戻るまでに、読み取れる部分を全て記憶する」
久遠は懐から目録の写しを取り出した。
こよいが昼間まで抱えていたあの黄金の書物。表紙の光はさらに弱くなっていた。頁の縁が黒ずみ、文字が滲んでいる。
行灯の光もない荷物車の中で、目録の残照だけが久遠の手元を淡く照らした。その光すら、揺らめくたびに弱くなる。蝋燭の最後の炎のようだった。
久遠は右目だけで頁を追い始めた。
義眼なしでは、不可視の文字は読めない。見える文字だけを拾い、記憶に焼き付けていく。
こよいは久遠の横に座り、巾着を胸に抱いた。
久遠の体温が隣から伝わる。低い体温だった。経蔵で力を使い果たし、身体の芯まで冷えている。こよいは無言で自分の肩を久遠の腕に寄せた。体温を分けるように。久遠は何も言わなかったが、僅かに身体を預けてきた。
荷物車に窓はなかった。外がどうなっているか分からない。ただ、車輪がレールを刻む音と、列車が走っている振動だけがある。
あさひの呼吸がゆっくりと深くなった。
眠ったのではない。体力を温存しているのだ。次に何が起きても動けるように。剣を膝の上に横たえたまま、片手は常に柄に添えている。戦士の眠り方だった。
こよいは目を閉じた。
巾着の温もりが胸にある。水の味がまだ舌に残っている。列車は走り続けている。
車輪の律動が、巾着の中の神々の脈と重なった。同じ速度で、同じ間隔で、鉄と水が呼吸を合わせている。木箱の隙間から、乾いた藁の甘い香りが立ち上った。こよいの瞼が重くなる。身体の芯に溜まった緊張が、列車の揺れに少しずつ溶かされていく。
明日のことは、明日考える。
あさひが前に言った言葉が、こよいの頭の中で繰り返されていた。




