第120話 覚醒の予感
書架が崩れていた。
前回とは規模が違う。棚が一つ倒れるたびに隣の棚を巻き込み、連鎖が止まらない。書物が雪崩のように降り注ぎ、床の石が割れ、沈む。
倒れた書物が床に叩きつけられるたび、頁から光の粉が噴き上がった。名前の粒子だ。書物に閉じ込められていた記録が、衝撃で弾け飛んでいる。粒子は宙を漂い、こよいの頬や腕に触れては消えた。触れた場所がひりつく。誰かの記憶の熱さだった。
あさひが先頭を走った。倒れてくる棚板を剣で叩き落とし、道を切り開く。斬り払った棚板が壁に当たり、木片と書物の頁が紙吹雪のように舞った。あさひの背中は傷だらけだった。衣の裂け目から、新しい血が滲んでいる。
久遠はこよいに支えられながら走っていた。義眼の光は消え、足取りが重い。
「ホームは!」
こよいが振り返ろうとした。だが久遠が腕に力を込め、前だけを見ろと促した。
「……潰れた。来た道は使えない」
久遠が息を切らしながら答えた。義眼が一度だけ弱く点り、前方の構造を読み取る。
「……左。書架の裏手に、搬入口がある。記録を運び入れるための古い通路だ」
あさひは迷わず左に曲がった。倒れかけた棚の間を身体を捻って抜け、書物の山を踏み越える。足元で古い革の表紙が潰れ、乾いた背糊が砕ける音がした。
棚と棚の隙間に、確かに小さな扉があった。木の扉で、錠はない。蹴り開けると、狭い石の通路が奥へ続いていた。黴た空気が通路の奥から流れてきて、鼻の奥を刺した。
天井が低い。あさひは頭を下げて走った。こよいは久遠の腕を肩に回し、引きずるように進む。
久遠の身体は思ったより軽かった。軽すぎた。義眼に注ぎ込んだ力の分だけ、肉体が削がれている。こよいの肩に預けた腕から、骨の形がそのまま伝わった。
石の壁が狭まり、二人分の肩幅がぎりぎり通れる幅になった。冷たい石が頬を掠め、苔の湿った感触が肌に残る。
通路の壁に、文字が刻まれていた。
古い文字。書架の中の書物と同じ、読めない文字。だが壁の文字は動いていない。刻まれたまま、静かにそこにある。
こよいは走りながらその文字に目を奪われた。経蔵が壊れても、この通路の文字は崩れない。石に直接彫られた言葉には、紙の記録とは違う強さがあるのだ。巾着の中で、月の神の光が壁の文字に反応するように微かに揺れた。古い記憶を読んでいるのかもしれなかった。
だが立ち止まる暇はない。
背後で、経蔵が崩壊する音が追いかけてくる。
地面が揺れ、壁から砂が落ちた。砂粒が首筋に入り込み、肌の上を冷たく滑る。
巾着の中で風の神が叫んだ。声にならない叫びだった。布が内側から膨らみ、こよいの胸を強く押した。逃げろ、と言っている。風が知っている。この通路が持つ時間の限界を。
天井に亀裂が走り、石の粉が雨のように降った。こよいは目を庇い、久遠を抱えたまま足を速めた。
通路の先に光があった。蒼白い光ではない。煤を含んだ黄色い光。列車の光だ。
「……見えた。線路がある」
あさひが叫んだ。
通路は経蔵の裏手に出ていた。外の空気が顔を叩いた。経蔵の中の澱んだ空気とは違う、冷たいが生きた空気だった。
本線とは違う、細い側線にレールが一本だけ敷かれている。その上に霧列車が停まっていた。
機関車は蒸気を吹き、動輪がゆっくり回り始めている。ホームはない。線路の砂利に直接降りる高さだった。
汽笛が鳴った。短く、二度。
「あの列車、自分で逃げようとしてるぞ!」
「当たり前だ。あいつも生き物みたいなもんだからな」
あさひは久遠をこよいから引き取り、肩に担いだ。
「走れ!」
こよいは走った。巾着を胸に抱え、砂利を蹴った。石が足裏に食い込む。列車は加速し始めていた。
蒸気が噴き出し、熱い霧が顔にかかった。機関車の罐が唸る音は、生き物が恐怖で喘ぐ声に似ていた。動輪の回転が速くなる。砂利が車輪に弾かれ、こよいの脛に当たった。痛みが走る。構わず走った。
巾着の中で神々が激しく脈打っている。雨の神が、こよいの心拍に合わせるように鼓動していた。
最後尾の車両に、荷物搬入用の低い扉があった。取っ手は錆びていたが、こよいが引くと開いた。
あさひが久遠を車内に押し込み、自分も飛び乗った。こよいはステップに足をかけ、取っ手を掴んで身体を引き上げた。
扉を閉めた。
背後で、搬入口の壁が崩れた。石と書物の塊が線路に落ち、レールが歪む音がした。列車は加速を続け、崩壊から逃げるように闇の中へ走り出した。
荷物車の床に転がり、こよいは天井を見上げた。
木の天井板に、積荷の染みが幾つも浮かんでいる。油と、藁と、何か甘い穀物の匂い。それが今は世界で一番安全な匂いに思えた。
心臓が喉を叩いている。息が荒い。手が震えている。
久遠は壁に背中を預け、目を閉じていた。額から顎にかけて、義眼から流れた黒い涙の筋が乾いている。
あさひは荷物車の隅に座り込み、剣を膝に横たえた。刀身に新しい傷が三本、光を反射している。
「……逃げ切ったか」
「ああ。……術式は、刻んだ」
久遠の声はかすれていたが、口元に微かな笑みがあった。
こよいは巾着に手を当てた。
四柱の脈が、弱いが確かに返ってくる。生きている。
こよいは息を吐いた。長い、震える息だった。指の先が冷たい。膝が笑っている。全身の力が抜けて、そのまま床に崩れ落ちそうだった。だが巾着の重さが、胸の上で確かにある。その重さがこよいを繋ぎ止めていた。
荷物車には木箱が積まれていた。古い麻布と乾いた藁の匂いがする。客車ではないが、座れるだけの広さはあった。
列車の揺れが、少しずつ穏やかになっていく。
経蔵から離れているのだ。崩壊の振動はもう伝わらない。車輪がレールを踏む規則的な音だけが、闇の中で刻まれている。
あさひが剣の柄を握ったまま、壁に頭を預けた。目は閉じているが、耳は起きている。戦いが終わった後の、獣のような休み方だった。
窓のない荷物車の中で、三人は揺られていた。




