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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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118/125

第118話 名の光粒

挿絵(By みてみん)


門を潜った瞬間、空気が変わった。

 前回のインクと古紙の匂いに、焦げた匂いが重なっている。書架(しょか)の森は健在だったが、ところどころで棚が傾いていた。

 足元の石が割れ、割れ目から粉末になった文字の残骸(ざんがい)が吹き出している。一歩踏むたびに灰色の粉が舞い、こよいの草鞋(わらじ)の底に張りついた。


 巾着(きんちゃく)の中で、四柱(よはしら)が一斉に身を固くした。

 前回来たときの記憶が、神々の中にも残っているのだろう。雨の神が速く脈打ち、月の神の銀光が警告のように明滅した。風の神は巾着(きんちゃく)の底に身を沈め、硝子(びいどろ)の神が周囲の光を読み取るように微かに揺れている。


 天井に亀裂が走り、割れ目から蒼白い光が漏れている。前回は天井すら見えない暗闇(くらやみ)だった。今は壊れかけた場所から光が差し、書架(しょか)の列を不規則に照らしていた。

 亀裂の縁から、光の粒が砂のようにこぼれ落ちている。粒は床に触れると消え、消えた場所の石が少しだけ白くなった。経蔵(きょうぞう)の構造そのものが、少しずつ崩れている。


 足元に書物が散らばっている。棚から落ちたものだろう。(ページ)が開いたまま床に広がり、文字が紙の上で微かに揺れていた。

 踏まないように歩いた。書物の表紙に、人の名前のような文字列が浮かんでいる。読めない文字だったが、名前であることだけは分かった。誰かの記録が、床の上に裸で転がっている。それが、こよいの胸を締めつけた。


 こよいがその一冊に手を伸ばしかけると、久遠(くおん)が肩を(つか)んだ。


 「触るな。崩壊中の記録は不安定だ。触れた人間の記憶を巻き込んで消す」


 こよいは手を引いた。

 書物の(ページ)の上で、文字が(うごめ)いている。読めない文字。けれどその形は、名前に見えた。


 「……あの文字、全部、名前?」


 「この書架(しょか)には、この世から消された記録が収められている。神の名、人の名、土地の名。消されたものが、死にきれずにここに溜まっていたんだ」


 こよいは息を()んだ。

 足元に散らばる書物の一つ一つが、消された存在の墓標だった。こよいたちが踏みしめている床の上に、無数の名前が眠っている。

 巾着(きんちゃく)の中の神々も、かつてはここに記録されていたのだろうか。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)が蒼く明滅した。情報の密度が高すぎるのだろう。額に汗が浮いている。


 あさひが先頭を歩いていた。

 剣の抜き(ぬきみ)を右手に、行く手を塞ぐ崩れた棚板を蹴り、道を作る。棚板が倒れるたびに、中に収められていた書物が雪崩(なだれ)のように落ち、(ページ)が開いて文字が宙に散った。散った文字は光を帯び、蛍のように漂い、やがて消える。

 前回は守護者が巡回していた通路が、今は瓦礫(がれき)で半ば埋まっている。


 「守護者は?」


 「気配は薄い。門が壊れたとき、かなりの数が巻き込まれて消えたらしい」


 久遠(くおん)が答えた。だが油断はできない。消え残った守護者がどこに潜んでいるか分からない。


 書架(しょか)の間を進むうちに、こよいは奇妙なものを見た。

 一冊の書物が、棚の上で勝手に開いた。風はないのに、(ページ)がめくれる。そこから黒い粒が飛び出した。


 (ちょう)だった。

 文字で出来た、小さな(ちょう)。何十匹も(ページ)から()き出し、天井の亀裂に向かって舞い上がっていく。一匹一匹の(はね)に、読めない名前が刻まれている。

 (ちょう)は音もなく飛んだ。羽ばたきの代わりに、名前の一文字一文字が微かに光る。その光が蒼白い闇の中に筋を描き、天井の亀裂に吸い込まれていった。

 あさひが剣を下ろし、(ちょう)を見上げた。切るものではないと分かったのだろう。鋭い目が、一瞬だけ柔らかくなった。


 消された名前が、経蔵(きょうぞう)の崩壊に乗じて逃げようとしている。


 こよいは立ち止まり、(ちょう)の群れを見上げた。

 黒い(はね)が蒼白い光の中を舞い、亀裂の向こうへ消えていく。一匹がこよいの頬をかすめた。(はね)の端に、「あ」という一文字だけが残っていた。名前の最初の一音。それだけを抱えて、この蝶は何千年もここに閉じ込められていたのだ。

 こよいは追いかけるように手を伸ばした。指先を(かす)めた(ちょう)は、一瞬だけ(てのひら)に温かい跡を残して、次の瞬間には蒼光に溶けた。


 巾着(きんちゃく)の中で、四柱(よはしら)の神々が震えた。

 同じものだったのだ。あの(ちょう)たちと、巾着(きんちゃく)の中の神々は。消されかけた名前。行き場を失った記録。違いがあるとすれば、巾着(きんちゃく)の中の神々には、こよいがいるということだけだった。


 「……行こう。あの子たちを、あれ以上増やさないために」


 こよいは前を向いた。

 書架(しょか)の森は奥に行くほど損傷がひどくなっている。棚が完全に倒れた場所もあり、床に書物の山が積み上がっていた。

 空気が重い。前回よりも、(ことわり)の密度が上がっている。呼吸のたびに、胸の奥に冷たい塊が沈んでいく感覚があった。久遠(くおん)義眼(ぎがん)が激しく明滅し、額に汗の筋が何本も流れている。こよいの草鞋(わらじ)の底が熱い。歩くたびに割れ目から立ち昇る気熱が、足を通して身体に()みてくる。

 あさひが振り返った。


 「久遠、大丈夫か」


 「黙って進め。時間がない」


 久遠(くおん)は歯を食いしばり、前を向いた。こよいは久遠(くおん)の背中を見た。震えている。それでも足は止めない。(ことわり)の重圧に耐えながら進む背中を、こよいは後ろから支えるように歩いた。

 その山を越え、亀裂を避け、三人は経蔵(きょうぞう)の深部へ進んだ。


 やがて、蒼白い光が黄金に変わり始めた。

 書架(しょか)の列が途切れ、広い空間が開ける。前方から、記録の重みとは異質の、静かな圧力が押し寄せてくる。

 空気の温度が変わった。冷たさの中に、微かな熱が混じっている。生きた記録の熱。まだ消されていない真実が、自らの存在を主張するように発している熱だった。

 巾着(きんちゃく)の中で、四柱(よはしら)が身を起こした。雨の神が強く脈打ち、月の神が銀光を鋭く(とも)す。前回ここに来たとき、神々は(おび)えていた。今も(おび)えている。けれどその(おび)えの中に、真実を知りたいという意志が混じっていた。


 真実の棚は、まだ立っていた。

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