第117話 崩れた門
列車が速度を落とし始めたとき、窓の外の光の粒子が一斉に消えた。
名前の川は途絶え、代わりに広がったのは、記憶のない闇だった。
音すら遠い。
車輪がレールを叩くリズムだけが、次第に間延びしながら、最後の脈動を刻んでいた。
車内の行灯が揺れ、蒼い火が一度大きく膨らんでから縮んだ。座席の革が冷気を吸い、触れた腕に鳥肌が立つ。
こよいは窓硝子に額を寄せた。
硝子は一度目の訪問のとき以上に冷たかった。
額の骨が痛むほどの冷たさ。冷気が皮膚を通り抜け、頭蓋の内側まで沁み込んでくる。吐いた息が硝子の表面で白く曇り、すぐに凍って薄い霜になった。
あさひが隣の席で身を乗り出した。窓の外を睨み、鼻を鳴らす。「……嫌な空気だ」と低く呟いた。
前方の霧が僅かに裂けると、見覚えのある影が浮かび上がった。
門だった。
こよいの背筋を、冷たいものが走った。記憶の中の門と、目の前の門が重ならない。
だが、前と同じではなかった。
表面を覆っていた文字の鱗が大きく剥がれ落ち、露出した石肌が黒い傷のように走っている。
門の左柱は途中からひび割れ、割れ目からは蒼白い燐光が血のように漏れ出していた。
燐光は脈を持っていた。一定の間隔で明滅を繰り返し、割れ目の奥から低い振動が伝わってくる。門そのものが、何かの苦痛に喘いでいるようだった。
巾着の中で、硝子の神が甲高い音を立てた。共鳴だった。門の燐光と同じ周波数で、硝子の欠片が震えている。
こよいは巾着を押さえた。布越しに伝わる振動が、指の骨まで響いた。
「……崩壊が始まっている。俺たちが目録を持ち出したせいで、経蔵の理の均衡が崩れたんだ」
久遠が目録を懐に仕舞いながら言った。
義眼の光は鋭さを増し、門の損傷を一寸の狂いもなく測定していた。
列車が止まった。
前回と同じ、呼吸が断たれるような静止。車体の軋みが一瞬で消え、沈黙が耳を塞いだ。
扉が開き、冷気が流れ込んだ。
今度は古い紙の匂いだけではなかった。
焦げた匂いがした。
記録が物理的に燃えている匂い。
甘い煙と、苦い灰。名前が燃えるとき、こんな匂いがするのかと、こよいは喉の奥が締まるのを感じた。
煙は目にも沁みた。涙が一筋、頬を伝ったが、拭う暇はなかった。
ホームに降り立つと、足元の塵は前回より浅くなっていた。
風が吹いていた。
前回はなかった風だ。
門の割れ目から噴き出す理の気流が、蓄積された塵を巻き上げ、四方へ吹き散らしている。
塵の中に、細い光の糸が混じっていた。名前の残骸だ。門が壊れた衝撃で書架から弾き出された記録の欠片が、風に乗って外まで飛んできている。光の糸がこよいの髪に絡まり、頬を掠め、指の間をすり抜けた。触れた場所に、微かな痺れが残る。
「……前に来たときとは、何もかも違う」
こよいは周囲を見回した。
ホームの天蓋が半分崩落し、瓦礫が線路にまで散乱していた。列車が辛うじて通れた幅だけ、かろうじて道が残されている。
ホームの柱が一本、根元から折れて倒れていた。
折れた断面から、文字の束が藁のように飛び出している。
あさひは背の剣を、抜き身のまま構え直した。
一度目のとき、彼は門を潜るまで鞘に納めていた。
今回は、最初から抜き身だった。
刀身が空気に触れた瞬間、鋼の表面に蒼白い燐光の反射が走った。経蔵の光を吸い込んだように、刃が冷たく光っている。あさひの目が細くなった。鼻腔に焦げた空気を吸い込み、舌打ちする。
「……抜き身かよ。お前にしちゃ珍しく物騒じゃないか」
「……うるせえ。前回、あの守護者どもの鎌で三ヶ所やられてんだ。同じヘマは御免だぜ」
あさひは刀身を一度だけ振り、空を薙いだ。
鋼の音が冷気を切り裂き、ホームの柱の間に反響した。
久遠は割れた門の前に立ち、義眼を奥まで凝らした。
「……守護者の気配は前回の三分の一以下だ。門が壊れた衝撃で、かなりの数が巻き込まれて消滅したらしい」
「……じゃあ、今回は前より楽ってこと?」
「楽かどうかは知らん。だが時間がない。この門が完全に崩落すれば、中の記録ごと経蔵は消滅する。真実の目録の本体も、永久に失われる」
久遠の声に、珍しく切迫した色が滲んでいた。
こよいは巾着に触れた。
中の神々は怯えていた。
だが、前回とは違う震え方をしていた。
恐怖だけではない。
何かを取り戻しに来たという、切実な意志が混じっている。
『……かえりたい。……ここに、わたしたちの、ことばが、ある……』
月の神の光が巾着の布を透かして白く滲んだ。微かだったが、確かな光だった。風の神が小さく唸り、雨の神が一つ、布の内側で弾けた。
こよいは巾着を胸に引き寄せた。神々の体温が、薄い布越しに肋骨の裏に沁み込んでくる。
「……行こう」
こよいが言った。
三人は割れた門の前に立った。
隙間から噴き出す冷気が、髪を乱し、衣を鳴らした。
門の縁に触れると、崩れた文字の破片が指にまとわりつき、すぐに風に攫われていった。
文字の破片は熱を持っていた。燃え残りのような微かな熱。指先に触れた瞬間、誰かの名前の一部が脳裏を掠めた。読めない文字なのに、そこに込められた意味の欠片だけが伝わる。名前が壊れるとは、こういうことなのだと、こよいは唇を噛んだ。
奥から、蒼白い燐光がゆらめいていた。
前回の暗闘とは違う。
何かが壊れ始めている音が、門の奥底から聞こえていた。低く、重く、間断なく。石と記録と理が同時に崩壊する音だった。




