第114話 目録の真実
市場を出ると、川沿いの道に午後の光が落ちていた。
水面に陽が反射し、柳の枝先に小さな虫が飛んでいる。
朝とは違う鈴灯だった。朝が匂いの町なら、午後は光の町だ。石畳の隙間から生えた草が金色に透け、軒先の銀鈴が日差しを弾いてちらちらと光っている。
こよいは川辺を歩きながら、巾着の温もりを掌に感じていた。
風庭で開いた水路と、祠に落とした一滴。それだけで町の風が変わったことが、まだ信じられなかった。
水が流れれば風が通り、風が通れば鈴が鳴る。鈴灯の町は、そういう仕組みでできている。人が作ったのか、水と風が自然に作り上げたのか。おそらくその両方だろう。布を洗う女たちの手が止まるたび、川面に写る鈴の影がふわりと揺れた。こよいはその揺れを数え、水脈の記憶がどこまで繋がっているのかを確かめていた。
川の対岸で、女が二人、布を洗っていた。
水に浸した布を石の上で叩き、絞り、また浸す。同じ動作を繰り返しながら、何かを話して笑っている。声は聞こえないが、肩の動きと口元の形で、穏やかな午後の会話だと分かった。
布を叩く音が川面を伝わってくる。規則正しいその音は、市場の銀鈴とは違う種類のリズムで、午後の空気を刻んでいた。
隣で、小さな子どもが川に足を入れて遊んでいる。水飛沫が上がるたびに声を上げ、女たちが振り返って何かを言った。
こよいは立ち止まり、その光景を見ていた。
経蔵にも、鈴灯の社にも、この光はなかった。人が笑い、水が流れ、午後の陽が石を温めている。それだけのことが、取り返しのつかないほど大切だった。
巾着の中の神々も、こういう場所に在るべきだったのだ。光と水と人の声の中に。
あさひが川岸の石段に腰を下ろした。
剣を膝の上に置き、刃の歪みを指で辿っている。刃に映る午後の光が、歪んだ線を描いていた。
川辺の細い道を、子どもが三人走ってきた。
魚を追いかけているらしく、棒を持って水際を叩きながら歓声を上げている。足元に泥が跳ね、草履が石に当たってからからと鳴った。一人がこよいたちの前で足を止め、あさひの剣を見て目を丸くした。
「それ、すごいね。おっきい」
あさひは一瞬だけ面食らった顔をしてから、口の端を歪めた。
「持つか?」
「いいの?」
子どもの手が伸びたが、剣は持ち上がらなかった。
両手で柄を掴み、歯を食いしばるが、地面から離れない。顔を真っ赤にして踏ん張り、それでも剣はびくともしなかった。
「……おも」
「そうだ。重い。だから俺が持ってる」
あさひの声に硬さはなかった。
子どもは諦めて手を離し、仲間を呼んで走っていった。三人の小さな背中が川沿いの道を駆け抜け、角を曲がって消えた。
あさひはその背中を見て、何か言いかけたが、やめた。代わりに剣を持ち上げ、刃の表面を親指でなぞった。刃を冷ますように、ゆっくりと息を吐いている。
久遠は川岸から少し離れた石段に座り、懐から目録を出していた。
黄金の表紙が午後の光の中で鈍く光っている。頁を開き、義眼の蒼光が文字の上を走る。指先が文字をなぞるたびに、表紙の金が微かに揺らいだ。
「……原初の術式。核となる部分が三つある。そのうち二つは、先日の経蔵の記録から読み取れた。だが三つ目が、まだ見えない」
久遠は眉を寄せ、頁を繰った。指先が一行ごとに止まり、義眼の蒼光が明滅する。
「術式の第一条件は、名前の器。第二条件は、水脈の記憶。この二つは、鈴灯で確認できた。風庭の水路と、町に残る水脈の記憶が、第二条件を満たし得る」
「じゃあ、三つ目は」
「三つ目の要素は、経蔵の中の、さらに奥にある。あの場所に、もう一度入る必要がある」
「……守りはきつくなってるだろうな」
あさひが言った。
久遠は頷いた。
「ああ。前回で、経蔵の防衛は上がっている。目録の気配も、奴らには伝わっている。正面からは入れない」
目録を閉じ、懐に仕舞った。
義眼の光が消え、久遠の表情が年相応に戻る。その表情には疲労と、それを隠そうとする意志が混在していた。久遠は川面に視線を落とし、水に映る自分の顔をしばらく見ていた。
こよいは川を見ていた。
水面を流れる光が、揺れながら下流に向かっていく。光の筋が石に当たって砕け、また集まり、形を変えながら進んでいく。
巾着の中の神々も、かつてはそういう循環の中にいたのだろうか。生まれ、流れ、還り、また生まれる。その環を、観測者が断ち切った。
対岸では、布を洗い終えた女たちが立ち上がり、子どもの手を引いて帰っていった。
石の上に残った水滴が午後の陽に光り、やがて乾いて消えた。
巾着の中で、雨の神がゆっくりと脈打った。
こよいはその脈に指を合わせた。
「……返しに行こう」
声が自然に出た。
「あの子たちの元の場所を、取り戻しに行こう。経蔵の奥に何があっても、三つ目の術式を見つけて、あの子たちを解放する方法を完成させる」
あさひが立ち上がった。
剣を肩に担ぎ、川に背を向ける。
「……待ってたぜ、その台詞」
久遠は何も言わなかった。
ただ義眼に蒼光が戻り、静かにこよいを見て、小さく頷いた。
川風が三人の間を通り抜けた。
銀鈴の音が遠くから聞こえ、子どもたちの歓声がその上に重なっている。
風が柳の枝を揺らし、水面に波紋が広がった。
巾着の中で、四柱の脈が同時に温かくなった。
雨の神が一つ、大きく脈打った。
こよいは川の流れを最後にもう一度見て、歩き出した。
夕暮れまでに、停車場に着かなければならない。
三人の足音が石畳に重なり、午後の光の中を遠ざかっていった。




