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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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113/125

第113話 風守の祠

挿絵(By みてみん)


風庭(かぜにわ)から降りると、朝の市場が始まっていた。

 板橋(いたばし)を渡る頃には、川魚を焼く匂いが(きり)の中に混じっていた。鈴灯(すずとも)の朝は匂いから始まるのだと、こよいは思った。

 橋の欄干(らんかん)に朝露が粒になって残っていた。指先で触れると、水滴が木目の筋を伝って落ちていく。川面(かわも)には白い(もや)が低く()い、その下を魚影がゆるく横切った。


 鈴風市場(すずかぜいちば)の入口には、木枠に銀鈴が何十も吊るしてあった。風が通るたびに鳴り、澄んだ音が通り全体に響く。

 こよいはその音のくぐりを抜けて、市場の中に入った。

 鈴の振動が耳を通り過ぎた後も、鎖骨(さこつ)のあたりに余韻が残った。音というより、水面に落ちた小石の波紋を身体の内側で受けたような感覚だった。巾着(きんちゃく)の中で、雨の神がほんの一瞬だけ共振した。


 両側に店が並んでいる。

 魚屋の生け(いけす)で川魚が跳ね、八百屋の台に(かぶ)や大根が積まれている。乾物を量り売りする老婆が(はかり)を叩き、隣の飴屋(あめや)から甘い湯気が漂っていた。

 石畳(いしだたみ)は朝露に濡れ、草履(ぞうり)の底が微かに滑る。


 こよいは足を止め、耳を澄ませた。

 鈴の音。売り声。秤の音。水桶(みずおけ)を置く音。すべてが重なって、市場の空気を動かしている。

 魚屋の主人が川魚の腹を手際よく裂いていた。銀色の(うろこ)が朝日を弾き、こよいの目の前を飛んでいく。生け(いけす)の水が跳ねた飛沫(しぶき)が頬にかかった。冷たくて、生臭くて、それが不思議と心地よかった。生きている町の匂いだと思った。


 巾着(きんちゃく)の中で、風の神が小さく揺れた。

 風庭(かぜにわ)で目覚めた風の感覚が、まだ残っているのだろう。市場を吹き抜ける風は穏やかで、銀鈴の音に乗って通りの隅々まで行き渡っていた。


 あさひが鼻をくんと鳴らした。飴屋(あめや)の甘い匂いに釣られたのか、視線がそちらに流れかけて、すぐに戻る。任務中だという自覚が、彼の足を露店に向かわせなかった。だが耳の先がわずかに赤い。こよいはそれに気づいて、小さく笑った。


 「……鈴が、風を整えてるんだね」


 こよいが(つぶや)くと、久遠(くおん)が小さく(うなず)いた。


 「鈴灯(すずとも)の名前の由来だろう。鈴で風を(とも)す。風の流れが正しければ、(ことわり)の隙間は生まれにくい」


 あさひは露店の布の揺れを見ていた。

 風が通る場所では布が規則正しく揺れている。だが市場の奥に一箇所、布が動かない路地があった。


 「あそこだけ、風が死んでる」


 三人は路地に入った。

 両側の建物が迫り、空が細い帯になる。銀鈴の音が遠くなり、足音だけが壁に反射していた。

 日の当たらない石壁はひんやりと湿っていた。指先で触れると、(こけ)の薄い層がぬるりと崩れる。水の記憶が、ここだけ(よど)んでいる。空気が重く、古い井戸の底に降りていくような圧迫感があった。


 路地の突き当たりに、小さな(ほこら)があった。

 木の柱が傾き、屋根の板が一枚剥がれている。前に掛かった木札は(すみ)が薄れ、文字が半分読めない。


 こよいは(ほこら)の前でしゃがんだ。

 (ひざ)をつくと、石の冷たさが衣を通して伝わってきた。(ほこら)の木は灰色に枯れている。だが根元に、かすかに湿った染みがあった。水は途絶えたのではなく、細く、弱く、まだ繋がっている。

 巾着(きんちゃく)の中で、雨の神が脈打った。ここにも、水の記憶がある。風庭(かぜにわ)の水路と繋がっているのかもしれない。


 (ほこら)の足元に、小さな(くぼ)みがあった。かつて水を溜めていた器の跡だろう。乾いて、砂が溜まっている。


 こよいは巾着(きんちゃく)(くぼ)みの傍に置いた。

 口を開けようとして、手が止まった。風庭(かぜにわ)で雨の神が自分から落ちた夜のことが(よみがえ)る。あのとき、こよいは何もしなかった。何もしなかったから、雨の神は自分で選べた。


 巾着(きんちゃく)の布が、内側から微かに湿った。

 神々が布を()かして、小さな水の(たま)巾着(きんちゃく)の縁に押し上げている。(くぼ)みの乾いた石に向かって、水の(たま)がゆっくりと傾いていく。


 誰も触れていなかった。


 (たま)が石に落ちた。音はなかった。

 染みた水が石の中を伝い、(くぼ)みの底から糸のように細い光が走った。水脈(すいみゃく)が応えたのだ。(ほこら)の木の柱がかすかに(きし)み、乾いた砂の下から湿った土の匂いが立ち昇った。

 一拍おいて、路地の奥から微かな風が吹いた。(ほこら)の木札が揺れ、薄れた(すみ)の文字が一瞬だけ濃く見えた。


 銀鈴の音が、路地の中まで届き始めた。


 あさひが振り返った。路地の入口で、露店の布がふわりと膨らんでいる。


 「……あいつが自分で落ちやがった」


 「うん。風庭(かぜにわ)のときと同じだ。この子たちは、自分で選んでる」


 久遠(くおん)(ほこら)の木札を(のぞ)き込んだ。義眼(ぎがん)が蒼く光り、薄れた(すみ)の下に隠された古い文字を読み取っている。


 「……風守(かぜもり)(ほこら)鈴灯(すずとも)の初代が建てたものらしい。百年以上前だ」


 こよいは(ほこら)に手を合わせ、立ち上がった。


 市場に戻ると、通りの空気が少し変わっていた。

 目に見える変化ではない。ただ、鈴の音の響きが深くなった気がする。雨の神が自分で選んだ一滴が、路地の奥で静かに広がっているのだろう。


 紙屋の軒先で、薄い和紙が風に揺れていた。

 神棚用の札や、小さなお守りが並んでいる。こよいは一枚を指でなぞった。紙の繊維に、水の気配がある。


 この町では、紙も水の記録なのだ。鈴が風を整え、紙が水を記憶し、人の営みがその二つを繋いでいる。


 久遠(くおん)が足を止め、紙屋の和紙を一枚、光に透かした。薄い繊維の隙間に、肉眼では見えない文字の痕跡(こんせき)が浮かんでいる。義眼(ぎがん)がわずかに蒼く光った。


 「……この紙は、()いた水の流れた場所を覚えている。鈴灯(すずとも)の記録は、(すみ)ではなく水に刻まれているんだ」


 飴屋(あめや)から子どもが走り出てきて、こよいの横をすり抜けた。頬を膨らませて笑っている。その笑い声が風に乗り、銀鈴と重なった。


 巾着(きんちゃく)の中で、四柱(よはしら)の神々が穏やかに脈打っていた。

 風庭(かぜにわ)の水が、(ほこら)の下を流れ、市場の石畳(いしだたみ)の裏を通って、川に戻っていく。

 その循環の中に、こよいたちも立っている。


 あさひが空を見上げた。

 西の空が(だいだい)(にじ)み始めている。影が長くなり、石畳(いしだたみ)に露店の骨組みが黒い格子模様を落としていた。


 「日が傾いてきたな」


 午後の光が、市場の屋根を金色に染めていた。鈴灯(すずとも)の一日が暮れようとしている。銀鈴の音がいつの間にか低く穏やかな調子に変わっていた。風が()いでいくのだ。夜に向かって、町全体がゆっくりと息を吐いている。

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