第111話 風庭の目覚め
目を開けたとき、最初に感じたのは風だった。
頬を撫でる乾いた風。
冷たくはなく、温かくもない。
ただ動いている。
世界そのものが呼吸しているような、大きく緩やかな脈動が、こよいの全身を包み込んでいた。
背中に固い地面の感触があった。
石ではない。
乾いた土だった。
指先で触れると、砂のように細かい粒子がさらさらと崩れた。
銀色の砂粒が爪の間に入り込み、振り払おうとすると、指先に微かな痺れが走った。掌に残る感触は粉雪にも似ているが、乾いていて、指の熱を吸い取るように冷たかった。この砂は普通の砂ではない。
「……生きてるか」
あさひの声が、すぐ近くから聞こえた。
こよいは上体を起こした。肩に残った衝撃の余韻が腕を痺れさせ、指が巾着を握る力を取り戻すまで数息かかった。
視界がぐらりと揺れ、一瞬だけ空と地面の区別がつかなくなる。
目が慣れると、見渡す限りの銀色の砂地が広がっていた。
高い場所にいた。
眼下に、鈴灯の宿場町が小さく見えた。
軒先の銀鈴が光の粒のように瞬き、石畳の道が蛇のように曲がりくねって闇の中に消えている。
あの市場の喧騒も、茶屋の暖簾の揺れも、ここからでは何も聞こえない。
空気が薄い。息を吸うたびに肺の奥が冷え、吐く息は白くならないのに、喉だけが鉄の味を返した。
ただ風だけが鳴っていた。
低く、太く、地面から湧き上がるような風の声。耳に聞こえる音ではなく、骨を通して脳に届く振動だった。
「……風庭だ。鈴灯の最高峰。理の風が生まれて死ぬ場所だよ」
久遠は既に立ち上がっていた。
衣の裾に砂がこびりつき、義眼の蒼光は弱々しく明滅している。
銀色の渦から放り出された代償は大きかったようで、左目の下に黒い隈が濃く落ちていた。
こよいは巾着を確かめた。
紐はほどけておらず、中の神々は生きていた。
月の神が微かな銀光を漏らし、風の神が巾着の布越しに外の風と共鳴するように震えている。
硝子の神は冷たく静かに呼吸を続けていた。
『……かぜ。……ここの、かぜ、しってる……』
巾着の底から、風の神の小さな声が聞こえた。
こよいは思わず巾着を耳に近づけた。
風の神がこれほどはっきりと言葉を発するのは、初めてのことだった。
足元の砂地には、風の通り過ぎた跡が細い筋となって無数に描かれていた。
その紋様は一瞬ごとに形を変え、渦を巻き、直線を走り、止まることを知らない。
「……この場所には、記録される前の風が吹いている。観測者にも観測されていない、生のままの理だ」
こよいは風の神の言葉を反芻した。記録される前。観測されていない。経蔵で見た培養記録とは逆の、名前すらない原初の風。巾着の中の風の神がそれに呼応しているのは、同じく記録の外側で生まれた存在だからなのだろうか。
久遠は砂地に膝をつき、指先で風の描いた筋をなぞった。
指が触れた場所から、砂が微かに震え、新しい筋が生まれる。
まるで大地そのものが久遠の指に応えているようだった。
「……つまり、ここなら奴らの目が届かねえってことか?」
あさひが剣の柄に手を置いたまま問うた。
「一時的にはな。だが長くはもたない。経蔵から盗んだ目録の気配を、奴らはもう嗅ぎつけている」
風が一度だけ強く吹き、三人の衣を激しく鳴らした。
砂が舞い上がり、銀色の粒子が空中で渦を描いて、一瞬だけ光の柱のように見えた。
それが崩れると、庭園の奥に巨大な丸石が鎮座しているのが見えた。
苔に覆われた石の表面に、細かな傷が無数に刻まれている。石の周囲だけ、砂の色がわずかに濃く、湿気を帯びているように見えた。
こよいの巾着の中で、雨の神がことりと揺れた。
月の神の銀光が石の表面に反応し、一瞬だけ明るく灯った。
乾いた土の匂いが、鼻腔の奥まで沁みた。
この場所は渇いている。
水を求めている。
大地の底から、微かな、けれど確かな渇きの振動が、足裏を通じて伝わってきた。
「……あの石のところまで、行きたい」
こよいが言った。
理由は分からなかった。
ただ、雨の神が温かく脈打つ方向に、あの石があった。
あさひは周囲を見渡し、安全を確かめてから頷いた。剣の切っ先を砂に立て、立ち上がる途中で一度足を踏みしめ、地面の硬さと滑り具合を確かめている。
久遠は義眼を細め、庭園の奥に潜む理の波動を読んでいた。
三人は砂地を踏んで歩き出した。
足跡が砂に刻まれ、風がすぐにそれを消していく。
空は高く、星はなく、月だけが薄い雲の向こうで青白く燃えていた。
乾いた風が髪を攫い、衣の裾を鳴らし、耳の奥を通り抜けていく。
歩を進めるたびに足裏の感覚が変わる。砂の下に硬い岩盤が近づいているのか、それとも水脈の影響か、足元の振動がわずかに規則的になってきた。こよいはその変化を足に覚えながら、黙って歩いた。
こよいはその風の音の中に、遠い昔にこの場所を守っていた神の名残を聞いた気がした。
石の傍らに立つと、風が止んだ。
音が消え、砂が静まり、世界が息を詰めた。こよいの耳に、自分の心臓の音だけが響いた。
石の表面に刻まれた傷は、風が彫ったものではなかった。
こよいが指先で触れると、巾着の中で雨の神がひときわ強く脈打った。
傷の一つ一つが、かつてこの庭を守っていた名前の痕跡だった。
風に削られ、陽に焼かれ、それでもなお消えることを拒んだ、無数の祈りの残り香。
こよいは石の前に膝をつき、両の掌を押し当てた。
冷たかった。
指先から石の内部へ、微かな脈動が伝わる。規則的な間隔で打つ、動脈のような鼓動。こよいは呼吸を整え、掌の力を抜いた。
けれどその冷たさの奥に、微かな温もりが残っていた。
渇いた大地の底で、誰かがまだ息をしている。
風庭の砂が、三人の足元で音もなく渦を描き始めた。




