第110話 再びの門
石段は急だった。苔に覆われた段を一つずつ踏み、三人は登った。段の脇に小さな石灯籠が並んでいたが、どれも火が消えている。焼けた芯だけが残っていた。
足を置くたびに苔が潰れ、湿った土の匂いが立ち上る。石段の隙間から細い草が伸びていたが、どれも色が薄く、陽を浴びていないかのように白んでいた。あさひが息を荒くし、剣の鞘が腰で揺れるたびに、金属の乾いた音が崖に反響した。
中腹あたりで、巾着の中の風の神が強く震えた。
上の方から冷たい気配が降りてくる。煎餅の焦げた匂いも、土の匂いも消え、無臭の空気だけが肌を刺した。
石段を登り切ると、広い境内に出た。
中央に巨大な御神木が立っていた。幹は二人では抱えきれないほど太く、根が石畳を割って這っている。その根元に、古びた社があった。拝殿の正面に行灯が一つ掛けてあり、蒼白い火が燃えている。
風もないのに、炎が揺れない。
境内を覆う静寂は、耳鳴りのように重かった。鳥の声も虫の音もない。御神木の葉が一枚も揺れず、空気そのものが凍りついたように動かない。こよいの吐く息だけが白く漂い、すぐに消えた。
こよいの足裏に冷たさが伝わった。
経蔵の中で感じたものと同じ冷たさだった。
久遠が懐の目録に手を当てた。
書物が震えている。
「……反応が強い。この社の下に、何かある」
久遠の声は抑えていたが、義眼の蒼光が瞳孔のように収縮し、何かを解析している。
そのとき、社の奥から声がした。
「よく来たね。……いや、来てしまった、と言うべきか」
暗がりから男が歩み出た。
純白の法衣。顔には黄金の仮面。左手に、真鍮の天秤を提げている。天秤は傾いており、片方の皿だけが鈍い光を放っていた。
観測者。
巾着の中で、四柱が一斉に凍りついた。硝子だけが微かに震えている。恐怖ではなかった。怒りだった。
久遠の義眼が蒼く点った。あさひが一歩前に出て、剣を抜いた。
「我々の資産を持ち出したとは、感心しないな」
男の声に感情がなかった。天秤の皿が微かに揺れ、金属の擦れる高い音が境内全体に共鳴した。こよいの歯の根が鳴った。
「資産なんかじゃない」
こよいは巾着を胸の前で握った。
「あの子たちは生きてる。名前があって、声があって、泣くこともできる。それを部品なんて呼ばせない」
巾着の中で、雨の神が強く脈打った。こよいの言葉に応えるように、月の光が一筋だけ布の隙間から漏れ、こよいの指を銀色に照らした。風が小さく息を吹き返し、硝子が澄んだ音を立てた。四柱が、こよいの背中を押している。
男は首を傾けた。仮面の奥で、何かが光った。
「感情は記録の精度を下げる。未観測の変動は、秩序にとって害でしかない」
天秤を持ち上げた。
あさひが動いた。
地面を蹴り、一息で間合いを詰める。剣が弧を描いて仮面を狙った。
天秤の皿が鳴った。
衝撃波があさひを弾く。石畳の上を三歩滑り、膝で止まった。
「……重いな。触れただけで、身体が沈みやがる」
あさひの腕が震えていた。天秤から放たれた力が、存在そのものに重さを加えている。
石畳にあさひの膝の跡が沈み込み、足元の石に亀裂が走った。
久遠が叫んだ。
「天秤は存在の質量を書き換える! 近接では勝てない、下がれ!」
あさひが跳び退いた瞬間、男が天秤を振った。
空気が歪んだ。石畳の表面が、波紋のようにたわむ。
久遠が懐から目録を取り出した。
その動きは速く、迷いがなかった。義眼の蒼光が一段強くなり、額の血管が浮き上がる。
黄金の表紙が社の行灯に応えるように光を放つ。
天秤の波が目録にぶつかり、砕けた。
衝突の瞬間、空気が裂け、鼓膜を突く高い音が響いた。こよいは耳を塞いだ。
弾かれた力が御神木の幹を叩き、太い枝が折れて境内に落ちた。
仮面に、亀裂が入った。
「……何だ。記録にない周波だ」
男の声が初めて揺れた。天秤の両皿が激しく振れ、制御を失い始める。
「久遠、やめろ! 目録も壊れる!」
こよいが叫んだが、もう遅かった。
目録の黄金の光が脈動し、ページが風もないのに一枚ずつ捲れていく。文字が光り、浮かび上がり、空中に溶けた。久遠の義眼から蒼い涙のような光が一筋流れ、頬を伝った。
御神木の根が軋み、石畳が割れた。
地面の下から白い光が噴き出す。目録と天秤が共鳴し、社そのものが振動していた。
行灯の蒼白い火が弾け、空中に散った。
御神木が唸る。根が石を持ち上げ、拝殿の柱が傾いた。
光が膨れ上がった。
こよいは腕で目を庇った。光の中に、声が聞こえた気がした。四柱の声ではない。もっと古く、もっと深い、この土地そのものが発する呻きのような響き。
白い。
何も見えない。
音もない。
身体が浮いた。
足が地面を離れ、重力が消えた。巾着の中で四柱の神々が一斉に光り、こよいの胸に焼けるような熱が走った。
それから、落ちた。
長い時間をかけて、ゆっくりと。いや、一瞬だったのかもしれない。時間の感覚が溶けて、こよいには分からなかった。
風の中に落ちた。
乾いた、土の匂いのする風。
石畳ではなく、砂の感触が背中にあった。
どこか遠くで水の流れる音がした。それとも、巾着の中の神々が泣いている音だったのか。砂粒が頬に触れ、風が髪を撫でた。
こよいは巾着を抱いたまま、目を閉じた。
四つの微かな光が、暗くなる意識の中で最後まで灯っていた。
意識が、ゆっくりと遠ざかっていった。




