第109話 鈴灯の朝
朝が来ていた。
障子の桟の隙間から、白い光が畳の上に細い線を引いている。
こよいは目を開け、しばらくその線を見つめていた。
線は畳の目に沿って這い、布団の端を越え、巾着の紐の上で止まっている。
隣で、あさひの寝息がまだ続いている。
壁際の久遠は、いつの間にか横になっていた。懐に目録を抱いたまま、浅い呼吸を繰り返している。額に張り付いた前髪の下で、昨夜の疲労が隈の色に残っていた。
巾着は胸の上にあった。
温かい。夜の間に、四柱の脈が少しずつ戻っている。神々が穏やかに揺れ、月が淡い銀光を灯し、風が巾着の布越しに外の空気を探るように身じろぎしていた。
こよいは布団の上に座り、窓を開けた。
川霧がまだ残っていた。ただ昨夜より薄く、霧の向こうに朝の青が透けている。
窓の下に、細い路地が見えた。石畳の隙間から雑草が生え、壁の漆喰が所々剥がれている。古い町だ。けれどその古さには、人の手が積み重なった厚みがあった。
石畳の通りに、荷車を引く音が聞こえた。
市場の準備が始まっているのだろう。木箱を降ろす音、布を広げる音、老婆が誰かに声をかける音。経蔵の無音の世界とは何もかもが違う。ここには、人が暮らしている。
呼吸するたびに、藺草の匂いが薄く鼻に触れた。古い畳の、乾いた匂い。この匂いの中で眠れたことが、昨夜どれだけ救いだったか。
「……おはよう」
巾着に向けて、小さく言った。
返事はない。
でも、神々の脈が少しだけ速くなった。
あさひが目を開けた。天井を見て、一つ息を吐き、上体を起こす。寝癖が一房、額の上に跳ねている。
「……飯は」
「まだだよ」
「そうか」
それだけ言って、壁に立てかけた剣を取った。布で刃を拭い始める。刃の歪みは昨夜と変わらないが、手入れをする動作には迷いがなかった。
布が鋼の上を走る乾いた音が、静かな部屋に規則正しく刻まれる。
久遠も起き上がった。目の下の隈は深いが、義眼の蒼光は戻っている。懐の目録に一度手を触れ、確かめるように指先で表紙をなぞってから、立ち上がった。
「出よう。町を見ておきたい」
宿を出ると、朝の鈴灯が三人を包んだ。
空気が冷たく、湿っている。山と川に挟まれた谷間の町特有の、重く澄んだ朝の空気だった。
川沿いの道に出ると、朝靄が水面から立ち上がっていた。
川幅は広くない。けれど水は澄んでいて、浅い瀬を光が走っている。川底の小石が一つ一つ見えるほど透明で、苔の緑が水の中でゆらゆらと揺れていた。両岸に柳が並び、細い枝が霧の中で風を待っている。
こよいは川辺にしゃがみ、手を浸した。
冷たい。
指の間を水が通り抜け、爪の先に砂の粒が触れた。水は生きている。流れの中に力がある。経蔵にあった無臭の、何も感じさせない空気とは正反対だった。
巾着の中で、雨の神が脈を強めた。
「……この水、生きてる」
呟くと、川面を流れる朝靄が一瞬だけ薄くなった。
雨の神が川の水に応えたのだ。この町の水脈は、まだ生きている。
久遠は川の反対岸に目を向けた。義眼の光が霧を透かし、町の奥を読む。
「川の上流に水源がある。そこから町中に水路が巡っている。地上と地下、両方だ。水が通っている場所は理の隙間が少ない」
「隙間が少ないってことは、観測者の手が届きにくいってことか」
「そうだ。水脈が町を守っている。意図してそうしたのか、自然にそうなったのかは分からないが」
石橋を渡り、通りに出た。
露店の準備が進んでいた。木枠を組む男、布を広げる女、竹箒で石畳を掃く少年。誰もが手を動かし、声を交わし、朝の空気を作っていた。
煎餅を焼く匂いが流れてきた。
昨夜も感じた匂いだ。この町の朝は、この匂いから始まるのだろう。焼ける米の匂いは甘く、少しだけ焦げていて、腹の底を温かく揺する。
あさひが鼻を鳴らした。
「腹が減ったな」
「あとでな」
久遠が素っ気なく返すと、あさひは不満そうに口を曲げた。
だが足は止めなかった。煎餅屋の前を通り過ぎるとき、一瞬だけ横目で鉄板の上を見たが、それだけだった。
通りを進むと、軒先に銀色の鈴が吊るしてある家が多いことに気づいた。風が通るたびに、澄んだ音が重なって聞こえる。鈴が一つ鳴ると、隣の鈴も鳴り、その隣も鳴り、音が通りの端まで伝わっていく。
音の波が町を包んでいた。一つ一つは小さな鈴の音なのに、重なると風そのもののように聞こえる。
巾着の中で、風の神が震えた。
『……すず。……このおと、しってる……』
微かな声だった。
こよいは足を止め、巾着に耳を寄せた。風の神がこれほど穏やかに声を出すのは珍しい。鈴の音が、風の神の記憶に触れているのかもしれない。
「……鈴が好きなの?」
返事はなかった。
けれど、巾着の中で風の気配がゆるやかに巡り、布が内側からふわりと膨らんだ。
その膨らみに合わせるように、近くの軒先の鈴が一つ、音を立てた。風はなかったはずだった。巾着の中の風の神が、外の鈴に応えたのだ。
こよいの胸が、じんと痛んだ。
部品として作られたはずの神が、鈴の音を覚えている。
久遠が歩みを止めた。
通りの先に、石段が見えた。
苔に覆われた急な段で、両脇に小さな石灯籠が並んでいる。どれも火が消えていた。焼けた芯の跡だけが、かつての灯の記憶を残している。
義眼の蒼光が揺らいだ。
「……社だ。あの上にある。目録が、昨夜からずっとあの方角を指していた」
こよいは石段を見上げた。
朝の光が段の上端を白く照らしている。そこから先は木立に遮られて見えない。
町の気配が、石段の手前で途切れていた。
売り声も、鈴の音も、煎餅の匂いも、ここまでは届くが、石段の向こうには流れていかない。朝の町の温もりが、石段の一段目で冷えていた。
あさひが剣の柄に手を置いた。
「……嫌な匂いがする。昨日の経蔵と同じだ」
「罠かもしれねえぞ」
「かもしれない。だが目録が動いている以上、放置もできない」
久遠の声に迷いはなかった。
こよいは巾着を胸に当てた。
四柱の脈が、同時に速まっていた。
鈴の音が遠ざかり、石段の上の沈黙が、三人の足元まで降りてきた。




