第108話 霧列車の空白
列車が鈴灯の駅に着いたのは、深夜だった。
ホームに降りると、川霧が膝の高さまで溜まっていて、足元が見えない。
駅の灯は一つだけ残っていたが、それも霧の中でぼやけて、円い滲みにしか見えなかった。
改札には駅員の姿がなかった。
木の改札口だけがぽつんと立っていて、切符を入れる箱の蓋が風に揺れている。灯の届かない場所に、駅名を刻んだ石柱が霧の中で白く浮かんでいた。
深夜の便は、この世に半分しか存在しない列車のためのものだと、久遠が言った。
乗客は三人だけだった。列車は彼らを降ろすと、汽笛も鳴らさず、静かに霧の中へ消えていった。見送る者もなく、迎える者もない。ただ車輪がレールを叩く音だけが、遠ざかりながら霧に溶けた。
こよいは石畳を踏み、町の空気を肺に入れた。
霧の中に、朝に嗅いだのと同じ煎餅の焦げた匂いが残っている。
人の暮らしの匂い。
経蔵には、これがなかった。
あの場所にあったのは、インクの匂いと、死んだ紙の匂いだけだった。
こよいは大きく息を吸い込んだ。霧の中に、川魚を焼く脂の匂いと、どこかの竈の残り火の匂いが混じっている。人の手が作り、人の身体を温めた痕跡。足の指先がようやくほどけた。ずっと力を入れていたことに、今になって気づいた。
巾着の中で、神々がゆっくりと脈を取り戻し始めた。
鉄の箱から出て、土と水の気配のある場所に戻ったことで、雨の神が少しずつ息を吹き返しているのだろう。
月の光も微かに灯り、風の神が小さく身じろぎした。
「宿を取る。休まないと、この先は持たない」
久遠が言った。
義眼の光は消えていて、彼の顔は年相応の少年のものに戻っていた。
額に張り付いた前髪の下で、汗と血の跡が乾いている。
あさひは何も言わず、剣を肩に担いで歩き出した。
歪んだ刃が月明かりを鈍く反射している。経蔵の守護者と渡り合った代償が、刃の歪みに刻まれていた。だがあさひの足取りに迷いはない。宿へ向かう道を、嗅覚で辿るように歩いている。
露店は畳まれ、通りに人影はない。
石畳に残る荷車の轍と、乾いた落ち葉だけが、夜の町の静けさを強調していた。
どこかで犬が一声吠え、すぐに黙った。軒下の風鈴が、風もないのに一度だけ鳴った。町全体が眠りの底に沈んでいて、三人の足音だけが石畳に跳ね返る。こよいの草履の裏に、昼間の喧騒が残した砂粒が噛む。乾いた、小さな音。
久遠は通りの奥にある木賃宿を指し示した。
二階建ての古い建物で、軒先に小さな提灯がぶら下がっている。
灯は弱く、風が吹くたびに消えそうに揺れた。
宿の主人は老婆で、三人を見ても驚かなかった。
深夜に血と埃にまみれた子供が三人、宿を求める。それが珍しくない土地なのか、あるいはこの老婆が珍しいと思わない人間なのか。どちらにせよ、問いかけの目は一切なかった。
銅貨を受け取り、奥の部屋に通した。
廊下の床板が足の下で軋み、古い蝋の匂いが鼻を掠めた。壁には染みが幾つもあり、長い年月の湿気が木目に沁み込んでいる。
畳が古く、藺草の匂いが薄い。
布団は硬かったが、清潔だった。日に干した綿の匂いがして、こよいはその匂いに一瞬だけ、母の布団を思い出した。
あさひは剣を壁に立てかけ、そのまま横になった。
目を閉じる前に一度だけ天井を見て、「明日のことは明日考える」と呟き、すぐに呼吸が深くなった。
久遠は布団の上に座り、懐から目録を出した。
黄金の光はほとんど消えていて、今はただの古びた革の本に見える。
行灯の火が壁に久遠の影を映していた。痩せた肩と、前屈みの背中。義眼の消えた左目を庇うように、右目だけを凝らして頁を見つめている。その姿が、こよいには酷く脆く見えた。
彼はそれを膝の上に置き、しばらく見つめてから、また懐にしまった。
「……続きは、体力が戻ってからだ」
久遠は目を閉じた。
けれど、眠れないのだろう。
指先が何度も懐の目録に触れていた。
こよいだけが起きていた。
行灯の火を細くして、障子越しの月明かりだけを残した。畳の目が月光を受けて銀色に浮かび、部屋全体が水の底のように静かだった。
巾着を膝に乗せ、布越しに手を当てている。
経蔵で見たものが、まだ目の裏に残っていた。
光の結晶で出来た棚。
名のない書物から溢れる雫。
ページに刻まれた、神々の本当の姿。
そして、それを壊し、部品に変え、使い捨ててきた者たちの記録。
目を閉じているのに、像が消えない。崩れ落ちる書架の音がまだ耳の奥で反響し、あの場所で嗅いだ焦げた紙の匂いが、鼻腔の奥にこびりついて離れなかった。
巾着の中で、神々が弱く脈打った。
こよいはその脈に合わせて、指先で布を撫でた。
「……知ってしまったね」
声は、巾着に向けて呟いた。
返事はない。
でも、脈が少しだけ速くなった気がした。
「……でも、ぼくは変わらないよ。あの涙が嘘じゃなかったことは、ぼくが一番知ってるから」
窓の外で、川霧が薄く光った。
月の光が霧を透かして、畳の上に白い模様を描いている。
静かな町。
静かな夜。
経蔵の崩壊が嘘のような、ただの夜だった。
こよいは巾着を胸に抱き、布団に横になった。
藺草の匂いを吸い込む。
人の手が編んだ匂い。
その匂いの中で、ようやく呼吸が落ち着いた。
明日、何をすべきか。
目録に書かれた「原初の術式」のこと。
神々を解放するために、次にどこへ向かうべきか。
考えなければならないことは山ほどある。
けれど今は、眠ることだけが許された時間だった。
巾着の温もりが胸の上にあり、隣であさひの寝息が聞こえ、久遠の浅い呼吸が壁際で続いている。
三人と四柱の神が、同じ屋根の下にいる。
それだけで、今夜は十分だった。




