第107話 神の忘れ物
しばらく、誰も口を開かなかった。
車輪がレールを刻む音だけが規則正しく続き、行灯の蒼い火が小さく揺れている。
こよいは座席に座り直し、膝の震えを両手で押さえていた。
震えが止まらない。
経蔵の塵がまだ髪に残っていて、指で触れると紙の粉が白く散った。着物の裾は泥と煤で黒く汚れ、草鞋の鼻緒が半分切れかけている。三人とも、ひどい姿だった。
久遠が目録を膝の上に広げた。
黄金の表紙からは、まだ神気の残滓が立ち昇っている。
義眼の奥で蒼光が動き、「カチ」と小さな音を立てて焦点を合わせた。
「……暗号がほどけ始めた。ここに全部書いてある」
久遠はページをめくりながら言った。
声は平静だったが、ページを繰る指先が微かに震えている。
目録のページからは、古い墨と乾いた血のような匂いが立ち昇っていた。文字は黄金の表紙の光に照らされ、行灯とは違う、もっと深い色の光の中で浮かび上がっている。
こよいは巾着に手を置いた。
中で、神々が沈んでいる。
月の光はほとんど消えかけていた。
風の息は弱く、硝子の反射も曇っている。
知ってしまったのだ。
自分たちが何から作られ、何のために使われ、どう捨てられてきたのかを。
経蔵の奥で目録が開かれた瞬間、巾着の中に衝撃が走った。それは言葉にならない叫びだった。四柱が同時に震え、神々は沸騰するように脈打ち、月は光を喪い、風は呼吸を止めた。
こよいは巾着を両手で包んだ。
布越しの温もりは、いつもより冷たかった。
あさひは通路に足を投げ出し、天井を見ていた。
左腕の切り傷に布を巻き直しながら、歯で端を噛んで結んだ。血はもう止まっていたが、袖の染みは黒く乾いて残っている。
しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……なあ、こよい」
「……うん」
「理屈はどうあれ。俺がこの手で感じてきた、あの神様たちの震えや熱は、偽物なんかじゃなかった」
あさひは天井を見たまま言った。
「作られたもんだろうが何だろうが、あいつらは今、確かに俺たちの横で生きてる。記録の出所なんて、俺にはどうでもいい」
その言葉が、こよいの胸の底に落ちた。
重く、温かく。
巾着の中で、風がほんの僅かに身じろぎした。あさひの声が届いたのだろう。硝子の表面に、小さな光の粒が浮かんでは消えた。泣いているのか、笑っているのか、こよいには分からなかった。けれどそこに、確かに心の揺れがあった。
「……あさひの言う通りだよ。……雨の神様が流したあの涙は、絶対に本物だった」
こよいは泥のついた袖で目を擦り、巾着の口を指先で開いた。
中を覗き込む。
暗い布の底に、四つの光が蹲っている。どれも小さく、どれも弱い。けれど消えてはいない。
神々が一度だけ、弱く脈打った。
聞こえているのだ。
こよいの声が、まだ届いている。
こよいは巾着の口をそっと閉じ、布の上から頬を寄せた。温かくはない。けれど、冷たくもなくなっていた。
久遠はページを繰る手を止め、義眼を閉じた。
蒼光が消え、彼の顔が暗がりに沈む。
長い沈黙のあと、久遠は膝の上の目録に両手を置き、まるで祈るように肩を落とした。
「……目録の下層に、観測者が封印してきた術式が記録されている。原初の術式だ。……これを使えば、神々に打ち込まれた楔を無効化し、搾取の循環から解放できる」
「……それなら」
「ただし」
久遠は目を開けた。
義眼ではなく、右目で。
蒼い光のない、ただの茶色い瞳で、こよいを見た。
計算も分析もない、裸の眼差しだった。行灯の光が茶色い虹彩を琥珀色に染め、そこに小さなこよいの姿が映り込んでいた。
「神という調整弁を失えば、この世界の秩序そのものが崩壊する可能性がある。……その先に何が起こるかは、この目録にも書かれていない」
沈黙が落ちた。
車輪の音だけが刻み続ける。
行灯の火が一瞬揺らぎ、三人の影が壁の上で大きく歪んだ。窓硝子が振動し、細い隙間から鉄の匂いを含んだ夜風が忍び込んでくる。その風に、巾着の中の風の神がかすかに反応した。外の風と、閉じ込められた風が、硝子一枚で隔てられている。
神々を救えば、世界が壊れるかもしれない。
救わなければ、神々は永遠に部品のまま磨り減っていく。
こよいは窓硝子に映る自分の顔を見た。
泥と涙の跡がついた、小さな顔。
その奥に、巾着を抱えた自分の姿が薄く重なっている。小さな身体に、四柱の命を預かっている。その重さが、初めて形を持ってこよいの肩にのしかかった。
その顔に、覚悟が宿っているかどうか、自分では分からなかった。
けれど、巾着の中で神々がもう一度だけ脈打ったとき、こよいは答えを決めた。
「……救う。世界がどうなっても、あの子たちを見捨てない」
声は震えていた。
けれど、言葉は揺れなかった。
巾着の中で、四柱が同時に微かに光った。雨の神が一度だけ強く脈打ち、月が銀の光を放ち、風が深く息を吸い、硝子が澄んだ音を立てた。それはこよいの決意への、返事だった。
久遠は小さく頷き、目録を閉じた。
黄金の表紙が静かに光を収め、車内が一段暗くなった。
あさひは天井から視線を戻し、剣の柄を握った。
列車は霧の中を走り続けていた。
窓の外はただ白く、何も見えない。
けれど、車輪の音は確かに鈴灯の方角へ向かっていると、久遠が告げた。
あさひが低く呟いた。「……帰ったら、まず剣を打ち直さなきゃな」。それは何でもない言葉だったが、帰る場所があることを前提にした言葉だった。こよいはその一言に、小さく救われた。
こよいは巾着を胸に抱き、目を閉じた。
布越しに、四つの気配が寄り添っている。雨の神の静かな脈、月の細い光、硝子の微かな燐光、風の浅い呼吸。どれも弱く、どれも傷ついている。けれど、四つとも確かにそこにいた。
列車の揺れが、少しだけ優しく感じられた。




