第106話 経蔵崩壊
書架が倒れた。
一つ倒れると、次が倒れ、その次が倒れた。
ドミノのように連鎖し、数千年分の書物が質量を持った雪崩となって降り注いでくる。
文字が空気を切る。
一文字ずつが重く、鋭い。
床に落ちた巻物が弾け、中から黄ばんだ文字の群れが蛾のように飛び散った。壁に張りついた文字が焼けるように光り、消え、灰になる。経蔵の記憶が、目の前で死んでいく。
こよいは久遠の手を握ったまま走っていた。
久遠の手は冷たく、骨ばっていて、けれど離す気配はなかった。握り返す力が、走れ、という命令そのものだった。
振り返るな。
久遠がそう叫んだ。
振り返れば、記録の外側に弾き出される。
塵と煤が吹雪のように視界を奪い、足元の石が割れ、崩れ、沈んでいく。
こよいは呼吸を忘れて走った。
喉の奥に古い紙の粉が張りつき、舌が渇き、唾を飲み込む余裕もない。巾着が胸元で跳ね、中で風の神が悲鳴のように細く唸っていた。雨の神は脈を乱し、月の光は明滅を繰り返している。四柱がこよいの恐怖に呼応して、共に怯えていた。
久遠の義眼だけが蒼く光り、その光が退路を細く照らしていた。
「右!」
久遠の声に従い、身体を捻る。
頭上を巨大な文字の塊が通過し、背後の床を粉々に砕いた。
振動が足裏を叩き、膝が一瞬だけ折れそうになる。
天井から石片が降り、こよいの肩を打った。痛みが鈍く広がる。久遠がこよいの腕を引き、崩れた柱の間を縫うように走った。足元は書物の残骸で埋まり、一歩ごとに紙と革の表紙が砕ける音がした。
前方から、あさひが走ってきた。
全身から湯気を立ち昇らせ、剣は摩擦の熱で赤く光っている。
守護者の残党を薙ぎ払い、こちらへ合流する。
「ぐずぐずするな! 列車が出るぞ!」
あさひの声が崩壊の轟音を突き抜けた。
霧の奥で、汽笛が鳴っている。
短く、急くように、何度も。
その音が鳴るたびに巾着の中の硝子が共鳴し、薄い光の線を描いた。まるで進むべき方角を示すように、光の筋が霧の中に伸びている。こよいはその光を頼りに足を動かした。
ホームが見えた。
崩壊の粉塵の中に、赤い旗が倒れかけたまま揺れている。駅員の姿はない。
列車が動き始めていた。
巨大な動輪がレールを噛み、黒い煙を吐きながら、崩壊する経蔵から逃げようとしている。
「待って……!」
こよいは走った。
肺が裂けるほど息を吸い、泥と塵にまみれたホームの床を蹴った。
列車は加速する。
ホームの端が近づいてくる。
背後で柱が崩れ、ホームの屋根が傾いた。瓦が割れて足元に散り、破片がこよいの脛を打った。構わなかった。止まれば終わる。
こよいは手を伸ばした。
最後尾の扉の縁。
氷のように冷たい鋼。
指先が触れた。
滑った。
もう一度。
掴んだ。
鋼の冷たさが掌に食い込み、指の関節が白くなるほど握りしめた。腕が千切れそうだった。風が身体を引き剥がそうとする。列車の速度が、こよいの体重を容赦なく引きずった。
あさひが背後からこよいの身体を押し上げ、久遠が扉の枠を掴んで身体を引き寄せた。
三人がステップに足をかけた瞬間、扉が重い音を立てて閉まった。
背後で、経蔵が霧に沈んでいった。
門が裂け、壁が崩れ、全てが不透明な白に飲まれていく。
音が遠くなり、やがて消えた。
最後に聞こえたのは、書架の木が折れる乾いた音だった。何千年もの言葉を支えてきた棚が、自分の重さに負けて崩れる音。それが霧に吸い込まれ、沈黙だけが残った。
車内に、沈黙が落ちた。
こよいは床に倒れ込み、天井を見上げた。
心臓が肋骨を叩いている。
息が荒い。
手が震えている。
膝を擦りむいていた。掌にも切り傷があり、薄い血が滲んでいる。走っている間は何も感じなかった身体が、止まった途端に全ての傷を訴え始めた。
久遠は壁に背中を預け、目を閉じた。
義眼の蒼光が消え、額に血管が浮いている。
懐に、目録が押し込まれたままだった。黄金の表紙の角が着物の合わせ目から覗き、微かな光を放っている。あれだけの崩壊の中でも、久遠はこれだけは手放さなかった。
あさひは通路に座り込み、歪んだ剣を膝に横たえた。
刀身は傷だらけで、熱のせいで鞘に収まらない。
左腕に浅い切り傷があり、袖から血が滲んでいたが、あさひは気にする素振りも見せなかった。
布切れで煤を拭いながら、短く息を吐いた。
「……逃げ切ったな」
「……ああ。記録を、盗み出した」
久遠の声はかすれていた。
こよいは床に寝転がったまま、巾着に手を伸ばした。
布越しに、神々の気配を探る。
神々が弱く脈打った。
月の光が、ほんの微かに灯った。
風は、まだ震えている。
生きている。
まだ、四柱とも。
こよいが巾着を胸に押し当てると、心臓の鼓動が伝わったのか、神々の脈が少しずつ落ち着き始めた。月の光が布の隙間から細い銀の糸のように漏れた。
こよいは目を閉じ、巾着を胸に抱いた。
列車が加速していく。
車輪の音が速くなり、窓の外の霧が白い線になって流れていった。
あさひが立ち上がり、窓際に寄った。久遠も薄目を開け、窓の方を向いた。三人の視線が、同じ方角に集まった。
窓の向こうで、経蔵の残骸が蛍火のような光の粒子に分解されていくのが見えた。
あれほど巨大な記録の集積が、霧に溶けて消えていく。
静かだった。
静かすぎるほどに。
こよいはその光を見つめた。
光の粒の一つ一つが、かつて書架に眠っていた物語だった。誰かの祈り、誰かの記録、誰かが遺そうとした真実。それが塵となって散っていく。
目録だけが残った。
この一冊だけが、あの場所にあった全ての真実を抱えている。
重い。
この一冊は、途方もなく重い。
こよいは巾着を抱く腕に力を込め、窓の外の光が最後の一粒まで消えるのを見届けた。




