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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第4章 境の継ぎ目

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106/125

第106話 経蔵崩壊

挿絵(By みてみん)


書架(しょか)が倒れた。

 一つ倒れると、次が倒れ、その次が倒れた。

 ドミノのように連鎖し、数千年分の書物が質量を持った雪崩(なだれ)となって降り注いでくる。

 文字が空気を切る。

 一文字ずつが重く、鋭い。

 床に落ちた巻物が弾け、中から黄ばんだ文字の群れが()のように飛び散った。壁に張りついた文字が焼けるように光り、消え、灰になる。経蔵(きょうぞう)の記憶が、目の前で死んでいく。


 こよいは久遠(くおん)の手を握ったまま走っていた。

 久遠(くおん)の手は冷たく、骨ばっていて、けれど離す気配はなかった。握り返す力が、走れ、という命令そのものだった。

 振り返るな。

 久遠(くおん)がそう叫んだ。

 振り返れば、記録の外側に弾き出される。


 (ちり)(すす)が吹雪のように視界を奪い、足元の石が割れ、崩れ、沈んでいく。

 こよいは呼吸を忘れて走った。

 喉の奥に古い紙の粉が張りつき、舌が渇き、唾を飲み込む余裕もない。巾着(きんちゃく)が胸元で跳ね、中で風の神が悲鳴のように細く(うな)っていた。雨の神は脈を乱し、月の光は明滅を繰り返している。四柱(よはしら)がこよいの恐怖に呼応して、共に(おび)えていた。

 久遠(くおん)義眼(ぎがん)だけが蒼く光り、その光が退路を細く照らしていた。


 「右!」


 久遠(くおん)の声に従い、身体を捻る。

 頭上を巨大な文字の塊が通過し、背後の床を粉々に砕いた。

 振動が足裏を叩き、膝が一瞬だけ折れそうになる。


 天井から石片が降り、こよいの肩を打った。痛みが鈍く広がる。久遠(くおん)がこよいの腕を引き、崩れた柱の間を縫うように走った。足元は書物の残骸(ざんがい)で埋まり、一歩ごとに紙と革の表紙が砕ける音がした。


 前方から、あさひが走ってきた。

 全身から湯気を立ち昇らせ、剣は摩擦の熱で赤く光っている。

 守護者の残党を()ぎ払い、こちらへ合流する。


 「ぐずぐずするな! 列車が出るぞ!」


 あさひの声が崩壊の轟音(ごうおん)を突き抜けた。

 (きり)の奥で、汽笛(きてき)が鳴っている。

 短く、()くように、何度も。

 その音が鳴るたびに巾着(きんちゃく)の中の硝子(びいどろ)が共鳴し、薄い光の線を描いた。まるで進むべき方角を示すように、光の筋が(きり)の中に伸びている。こよいはその光を頼りに足を動かした。


 ホームが見えた。

 崩壊の粉塵(ふんじん)の中に、赤い旗が倒れかけたまま揺れている。駅員の姿はない。

 列車が動き始めていた。

 巨大な動輪がレールを噛み、黒い煙を吐きながら、崩壊する経蔵(きょうぞう)から逃げようとしている。


 「待って……!」


 こよいは走った。

 肺が裂けるほど息を吸い、泥と(ちり)にまみれたホームの床を蹴った。

 列車は加速する。

 ホームの端が近づいてくる。

 背後で柱が崩れ、ホームの屋根が傾いた。瓦が割れて足元に散り、破片がこよいの(すね)を打った。構わなかった。止まれば終わる。


 こよいは手を伸ばした。

 最後尾の扉の縁。

 氷のように冷たい鋼。


 指先が触れた。

 滑った。

 もう一度。


 (つか)んだ。

 鋼の冷たさが掌に食い込み、指の関節が白くなるほど握りしめた。腕が千切れそうだった。風が身体を引き剥がそうとする。列車の速度が、こよいの体重を容赦なく引きずった。


 あさひが背後からこよいの身体を押し上げ、久遠(くおん)が扉の枠を掴んで身体を引き寄せた。

 三人がステップに足をかけた瞬間、扉が重い音を立てて閉まった。


 背後で、経蔵(きょうぞう)(きり)に沈んでいった。

 門が裂け、壁が崩れ、全てが不透明な白に飲まれていく。

 音が遠くなり、やがて消えた。

 最後に聞こえたのは、書架(しょか)の木が折れる乾いた音だった。何千年もの言葉を支えてきた棚が、自分の重さに負けて崩れる音。それが(きり)に吸い込まれ、沈黙だけが残った。


 車内に、沈黙が落ちた。


 こよいは床に倒れ込み、天井を見上げた。

 心臓が肋骨(ろっこつ)を叩いている。

 息が荒い。

 手が震えている。

 膝を擦りむいていた。掌にも切り傷があり、薄い血が滲んでいる。走っている間は何も感じなかった身体が、止まった途端に全ての傷を訴え始めた。


 久遠(くおん)は壁に背中を預け、目を閉じた。

 義眼(ぎがん)の蒼光が消え、額に血管が浮いている。

 懐に、目録(もくろく)が押し込まれたままだった。黄金の表紙の角が着物の合わせ目から覗き、微かな光を放っている。あれだけの崩壊の中でも、久遠(くおん)はこれだけは手放さなかった。


 あさひは通路に座り込み、(ゆが)んだ剣を膝に横たえた。

 刀身は傷だらけで、熱のせいで(さや)に収まらない。

 左腕に浅い切り傷があり、袖から血が(にじ)んでいたが、あさひは気にする素振りも見せなかった。

 布切れで(すす)を拭いながら、短く息を吐いた。


 「……逃げ切ったな」


 「……ああ。記録を、盗み出した」


 久遠(くおん)の声はかすれていた。


 こよいは床に寝転がったまま、巾着(きんちゃく)に手を伸ばした。

 布越しに、神々の気配を探る。


 神々が弱く脈打った。

 月の光が、ほんの微かに灯った。

 風は、まだ震えている。


 生きている。

 まだ、四柱(よはしら)とも。

 こよいが巾着(きんちゃく)を胸に押し当てると、心臓の鼓動が伝わったのか、神々の脈が少しずつ落ち着き始めた。月の光が布の隙間から細い銀の糸のように漏れた。


 こよいは目を閉じ、巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。

 列車が加速していく。

 車輪の音が速くなり、窓の外の(きり)が白い線になって流れていった。


 あさひが立ち上がり、窓際に寄った。久遠(くおん)も薄目を開け、窓の方を向いた。三人の視線が、同じ方角に集まった。


 窓の向こうで、経蔵(きょうぞう)残骸(ざんがい)蛍火(ほたるび)のような光の粒子に分解されていくのが見えた。

 あれほど巨大な記録の集積が、(きり)に溶けて消えていく。

 静かだった。

 静かすぎるほどに。


 こよいはその光を見つめた。

 光の粒の一つ一つが、かつて書架(しょか)に眠っていた物語だった。誰かの祈り、誰かの記録、誰かが遺そうとした真実。それが(ちり)となって散っていく。

 目録(もくろく)だけが残った。

 この一冊だけが、あの場所にあった全ての真実を抱えている。


 重い。

 この一冊は、途方もなく重い。

 こよいは巾着(きんちゃく)を抱く腕に力を込め、窓の外の光が最後の一粒まで消えるのを見届けた。

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