第105話 真実の目録
書架の森を進むうちに、あさひの姿が隣から消えていた。入口で足を止め、追ってくる気配を食い止めるつもりなのだと、去り際の背中が告げていた。こよいと久遠は、先へ進むしかなかった。
やがて、蒼白い光が黄金の光へと変わった。
足元の塵の色が変わっていた。灰色の墨の粉ではなく、金色の微粒子が床を覆っている。踏むと草鞋の底に吸いつき、一歩ごとに小さな光を発した。重要な記録ほど、その残骸すらも光を失わないのだ。
地平線まで続く記録の牢獄の、その中心。
周囲の崩壊の音は、理の壁に遮られて不自然なほど静かだった。
宇宙の始まる前のような、完全な静止。
中央に立つ棚は、他の書架とは桁が違った。
木でも石でもない。
光の結晶で出来ている。
透明な柱の内部に、凍った稲妻のような脈が走っていた。近づくと、結晶の表面から低い振動が伝わってくる。耳ではなく、骨で聞く音。こよいの歯の根がかすかに鳴った。
棚の周囲には色彩を失った蒼い炎が揺らめき、こよいの胸の灯が応えるように明滅した。
棚に収められた黄金の書物から、雫が滴り落ちている。
文字の雫。
一滴ごとに、かつてこの地にいた神々の名の残響が刻まれていた。
雫が床に落ちるたびに、微かな音がした。鈴を水の中で鳴らしたような、高く澄んだ共鳴。その音が胸の灯に触れ、こよいの肋骨の裏側がじんと熱くなった。
「……見つけた」
久遠の声が震えていた。
畏れと歓びが綯い交ぜになった、抑えきれない震え。両手を握り締め、爪が掌に食い込んでいるのが横顔の緊張で分かった。こよいは初めて、久遠が泣きそうな顔をしているのを見た。
「この一冊だ。名前のない一冊。……観測者が数千年隠し続けてきた、真実の目録」
彼の義眼が、書物から放たれる情報の質量に耐えかね、瞳孔の奥から黒い血を流し始めていた。
黒い血は頬を伝い、顎の先から一滴落ちた。床に触れた瞬間、蒼い炎が一つ弾けるように膨らみ、すぐに元の大きさに戻った。久遠の血すらも、ここでは記録として読まれるのだ。
「久遠! やめて、目が……!」
「……分かってる。理の檻を壊す鍵が、無傷で手に入るわけがない」
久遠は口の端を歪め、黄金の書物に手を伸ばした。
指が表紙に触れた瞬間、世界が鳴った。
音ではなかった。
魂を直接揺さぶる振動。
床が震え、天井の遥か上方で書架の列が連鎖的に軋み始めた。蒼い炎が一斉に膨張し、黄金の棚から放射状に光の波紋が広がっていく。こよいの胸の灯が制御を離れて激しく明滅した。息ができない。
世界の定義そのものが、書き換えられようとしている。
巾着の中で、四柱の神々が同時に目を覚ました。
かつてないほどの驚愕を伴って。
『……あ。……ああ、そんな……。これは、わたしたちの、本当の……』
声が途切れた。
続けられなかったのだ。
目録のページが、風もないのにめくれていく。
そこに記されていたのは、神々の本来の姿と、それを解体した者たちの実験記録だった。
映像となって脳の奥に流れ込んでくる。
こよいは膝をついた。
床に手をつくと、光の結晶が掌に食い込んだ。痛みすら遠い。見たこともない景色、聞いたことのない悲鳴、触れたことのない温もりが次々と押し寄せ、こよいの記憶と神々の記憶の境目が溶けていく。
涙が止まらなかった。
巾着の中で、四つの気配が息を殺した。こよいは冷えた布を両手で包み、胸元へ引き寄せた。
数千年前、人々が理の隙間に遺した「強すぎる祈り」を核にして、観測者たちが意図的に培養した「生きた記録の器」だった。
奴らは神々の愛を燃料に世界を動かし、摩耗した神を「間引き」の名の下に解体し、新しい種子に作り替えてきた。
この世界は、神々の犠牲の上に回る搾取の歯車だった。
巾着の中で、風の神が小さく震えた。渦を巻く力もないほどの、か細い震え。月の光は消えかけ、雨の神は凍りついたように動かなくなった。四柱は自分たちの存在の意味を、根こそぎ奪われていた。
「……信じられない。……神様たちは、最初から……」
こよいの声が掠れた。
巾着の中で、神々は沈黙していた。
自分たちの起源が虚構だったと知って、声を失っていた。
久遠は目録を抱きしめ、顔を鬼のように歪ませていた。
「燃やしたんだ。神を燃料にして……摩耗すれば、廃棄した。これが、奴らの『歴史』だ」
「久遠、もう離して! このままじゃ久遠の心まで呑まれる!」
「離せるか。……俺の身体を壊し、人生を奪った奴らの正体が、ここにあるんだ」
久遠の目から、黒い涙が一筋流れた。
血と情報が混じった涙。
それでも彼は目録を放さなかった。
背後で、壁を蹴破る音がした。
あさひだった。
守護者たちの包囲を突破して、満身創痍の体で滑り込んできた。
剣は無数の傷で欠け、全身から湯気が立っている。
左の袖は肩口まで大きく裂け、覗いた腕に青黒い痣と浅い切り傷が幾筋も走っていた。それでもあさひの目は据わっている。守ると決めた者だけが持つ光だった。
「走れ! 天井が落ちる!」
天井が軋んだ。
巨大な見えない手で握り潰されるように、経蔵の天蓋が崩れ始めた。
降ってくるのは石ではない。
意味を失い、質量を得た「死せる文字」の塊だった。
こよいは立ち上がった。
涙を拭わず、久遠の手を掴んだ。
「行こう。真実が分かったなら、それを伝えなきゃ。ここで死んだら、この悲しみは永遠になかったことにされる」
久遠は一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷いた。
黒い涙を袖で乱暴に拭い、目録を懐に押し込んだ。そしてこよいの手を握り返した。その手は冷たく、震えていたが、力だけは確かだった。
三人は走り出した。
文字の礫が肩を打ち、塵が目を刺す。
書架が左右から倒れかかり、通路が狭くなっていく。あさひが剣の腹で崩れ落ちる棚を弾き飛ばし、道を切り拓いた。久遠はこよいの手を握ったまま走り、空いた手で義眼の蒼光を前方に向けている。暗闇の中に、かすかな線路の輝きが見えた。
遠くで汽笛が鳴った。
鋼の獣が、まだ生きている。




