シュレーディンガーのカレイ
日本海側の港町で郵便配達をしている広瀬潤(39)は、前回の船釣りで「マコガレイだと思ったら全部違う事件」を経験して以来、すっかり釣りにハマってしまった。
そして今日も同僚の佐伯に誘われて、二人は再び船に乗り込んだ。
「広瀬、今日はどのカレイが釣れるか楽しみだな」
「いや、もう僕は悟ったよ。釣り上げるまで何のカレイかわからないんだ」
「まあ、そうだな」
「つまりだ。これは……“シュレーディンガーのカレイ”だ!」
「急に物理学者みたいなこと言い出したな」
潤は胸を張った。
「釣り上げるまで、マコガレイかもしれないし、マガレイかもしれないし、イシガレイかもしれないし、ムシガレイかもしれないし、クロガレイかもしれない。つまり“同時に全部であり、同時に全部じゃない”状態なんだよ」
「(なに言ってんだこいつ)」
潤は満足げに頷き、仕掛けを落とした。
数分後、竿先がピクッと動く。
「来た! これは……シュレーディンガーのカレイ!」
「いや、まだ釣り上げてないからな」
慎重に巻き上げると、平たい魚が姿を見せた。
「これは……マコガレイ!」
「いや、それマガレイ。日本海ではこっちが多いって言ったろ」
「シュレーディンガーのカレイがマガレイだったか…」
潤はすぐに次の仕掛けを落とす。また竿がしなる。
「よし、次のシュレーディンガーのカレイだ!」
「名前として定着させる気満々だな」
巻き上げると、また別のカレイが現れた。
「これは……マコガレイ!」
「いや、それイシガレイ。ザラザラしてるだろ」
「シュレーディンガーのカレイがイシガレイだったか…」
三度目のチャレンジ。潤はもう完全に楽しんでいた。
「次のシュレーディンガーのカレイ、いきます!」
「もうそれ言いたいだけだろ」
巻き上げると、また違う種類。
「これは……マコガレイ!」「いや、それムシガレイ。斑点見ろ」
「シュレーディンガーのカレイがムシガレイだったか…」
佐伯は笑いながら肩を叩いた。
「広瀬、もうそれ言うために釣ってるだろ」
「いや、これは哲学だよ。カレイ哲学だよ」
そのとき、竿が突然ググッと強く引き込まれた。
「うわっ、重い! これは……シュレーディンガーのカレイじゃない!」
「そこは否定するんだな」
必死に巻き上げると、大きな魚体が水面に現れた。
「で、でかい!これは……カジカ!」
「正解。これは知ってるのか」
「寒くてかじかんじゃうね、カジカだけに」
佐伯は笑い転げた。
帰りの船で、潤は満足げに海を眺めた。
「今日の釣果は、マガレイ、イシガレイ、ムシガレイ、そしてカジカ。全部“シュレーディンガーのカレイ”だった」
「いや、釣り上げたら確定するんだから、ただのカレイだよ」
「いや、僕の中では永遠にシュレーディンガーのカレイなんだよ」
「広瀬、もうそれ流行らせる気だろ」
潤はニヤリと笑った。
「郵便配達の次は、カレイ哲学の伝道師になるかもしれない」
佐伯は呆れながらも笑っていた。こうして広瀬潤の釣りライフは、ますます奇妙で楽しい方向へ進んでいくのだった。




