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 目が覚めると、台所から小さな音がしていた。

 包丁の音。

 油の弾ける音。

 それから、何かが焦げかけているような匂い。

 清人は薄く目を開け、ぼんやり天井を見つめる。

 昨日のことが、一瞬夢みたいに思えた。

 会社をクビになって。

 昔の恋人の訃報を聞いて。

 死のうとして山へ行って。

 そこで出会った暗そうな女を、家に連れて帰ってきた。


「……意味分かんねぇ」


 掠れた声で呟きながら、ベッドから起き上がる。

 リビングへ出ると、カーテンの隙間から朝日が細く差し込んでいた。

 昨夜の湿った闇が嘘みたいに、部屋は淡い光で満ちている。

 小由希がキッチンに立っていた。

 白いシャツの袖を肘まで捲り、真剣な顔でフライパンを見つめている。

 長い黒髪は後ろで緩く結ばれていて、うなじが少し見えていた。

 山の上で泣いていた女と、同じ人には見えない。


「……なにしてんだ」


 後ろから声をかけると、小由希の肩がびくりと跳ねた。


「ひゃっ……!」


 慌てて振り返る。


「お、おはようございます……!」

「びっくりしすぎだろ」

「すみません……」

「いや、謝らなくていいけど」


 清人は眠そうな顔のまま冷蔵庫を開ける。

 ミネラルウォーターを取り出して一口飲んだ。


「で、何してんの」

「……卵焼きです」

「見れば分かる」

「じゃあ聞かないでください」

「朝からちょっと刺してくるな」


 小由希は少しだけ唇を尖らせる。


「目が覚めたら、何かしてないと落ち着かなくて……」

「だから料理?」

「はい。冷蔵庫、勝手に開けました」

「別にいいよ」

「卵も使いました」

「うん」

「あとフライパンも」

「それは使えよ」


 小由希が少しだけ笑う。

 昨夜より表情が柔らかい。

 テーブルの上には、皿に乗った卵焼きが置かれていた。

 形は不揃いで、端がちょっと焦げている。

 料理慣れしている感じではない。


「……食べますか?」

「毒入ってない?」

「入れてたら自分も食べます」

「無理心中のスケール小さすぎるだろ」

「昨日山にいた人の発言とは思えないですね」

「うるさい」


 清人は椅子へ座り、箸を取った。

 一口食べる。

 しばらく咀嚼してから、ぼそっと言う。


「……味薄いな」

「砂糖なかったんです……なので醤油だけで戦いました」

「戦う場所そこじゃないだろ」

「でも食べられますよね?」

「まあ……ギリ」

「ギリなんだ……」


 小由希が少し肩を落とす。

 その反応が妙に素直で、清人は思わず口元を押さえた。


「……何ですか」

「いや」

「今、笑いましたよね」

「笑ってない」

「絶対笑いました」

「気のせいだ」

「口、上がってます」

「お前、観察力あるな」

「会計士の知り合い多かったので」

「関係ある?」

「なんとなくです」


 小由希は自分の卵焼きを一口食べる。

 数秒止まる。


「……薄いですね」

「だろ」

「でも、嫌いじゃないです」

「負け惜しみにしか聞こえない」

「屋久島さん、ブラックコーヒー好きじゃないですか」

「好きっていうか、慣れ」

「卵焼きも同じかもしれません」

「苦しいフォローだな」


 小由希がくすっと笑う。

 朝日が、その横顔を柔らかく照らしていた。

 昨夜の彼女は、今にも消えてしまいそうだった。

 でも今は少しだけ違う。

 まだ脆いままだけれど、ちゃんと“ここにいる”感じがした。

 清人は卵焼きをもう一口食べながら、窓の外を見る。

 昨日、死ぬつもりだった。

 それなのに今、自分は誰かと朝飯を食っている。

 人生は時々、意味が分からない方向へ転がる。


「……何ですか、また」

「いや」

「今度は何考えてました?」

「お前、ほんと人の顔見るな」

「暇なので」

「失礼だな」

「だって屋久島さん、顔が“人生終わった人”みたいなんですもん」

「終わってる最中なんだよ」

「進行形なんですね」

「やめろ、地味に傷つく」


 小由希はまた笑った。

 その笑顔を見て、清人はふと思う。――笑うと案外かわいいんだな、と。

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