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 料理を食べ終えたあとも、二人は特に何をするでもなく、ローテーブルを挟んで向かい合っていた。

 窓の外では、朝がゆっくり街を白く染め始めている。

 遠くを走る電車の音。

 隣室のドアが閉まる音。

 世界は普通に朝を始めているのに、この部屋だけが夜の続きを引きずっていた。

 清人はソファにもたれ、缶コーヒーを片手にぼんやりしていた。

 小由希は床へ正座したまま、何かを見つめている。

 その視線の先に、小さなノートがあった。

 黒に近い紺色の表紙。

 手帳ほどの大きさしかない薄い冊子。

 けれど、不思議と目を引く。

 まるで、中に“誰かの秘密”が閉じ込められているみたいだった。

 小由希はそのノートを、両手で抱えるように持っている。

 離したら最後、もう二度と何かを掴めなくなるみたいに。

 清人が視線を向けると、小由希ははっとしたようにノートを胸元へ隠した。


「……なんだ、それ」

「な、なんでもないです」

「なんでもない隠し方じゃなかったけど」


 小由希が目を逸らす。

 誤魔化すのが下手な人間の反応だった。

 清人は少しだけ苦笑する。


「別に取り上げたりしないって」

「……すみません」

「いや、謝るほどじゃ」

「癖なんです」

「何が」

「大事なもの、隠しちゃうの」


 その言葉に、清人は少しだけ黙った。

 小由希自身、“大事なものを失う怖さ”を知っている顔をしていた。


「……見せたくないなら別に見ない」


 清人は缶コーヒーを口へ運ぶ。

 冷めたブラックは妙に苦かった。

 小由希はしばらくノートを見つめていたが、やがて小さく息を吐いて、ゆっくり手をどけた。


「美緒さんの……遺品なんです」


 声は静かだった。

 けれど、その静けさの下に緊張が滲んでいる。


「火事のあと、外に置いてあったバッグの中に入ってて……。警察の確認が終わって、私のところに回ってきました」


 清人はノートを見る。

 角は少し擦れているが、焦げた痕はなかった。

 火の中から偶然残ったのか。

 それとも、誰かが持ち出したのか。

 朝の薄い光の中で見ると、そのノートだけ色が深く見える。


「中は読んだのか」

「少しだけ」

「何が書いてあった」


 小由希はノートを開く。

 けれど、すぐには清人へ見せなかった。

 ページを撫でる指先が、かすかに震えている。


「……怖いんです」

「ん?」

「もし、本当に何か書いてあったらって思うと」


 小由希は俯く。


「火事が事故じゃなかったって、証明される気がして」


 清人は何も言わなかった。

 小由希はしばらく黙り込んだあと、一つだけページを見つめながら呟いた。


「……“28”って数字が、何度も出てくるんです」

「28?」

「はい」


 小由希が小さく頷く。


「ただの数字にも見えるんですけど……でも、何か意味がある気がして」


 清人は缶を机へ置いた。

 小さな金属音が、静かな部屋へ落ちる。


「他には?」

「企業名みたいなのとか……日付とか……あと記号みたいなものも」

「暗号っぽい?」

「そんな感じです」


 小由希は困ったように眉を下げる。


「私、こういうの苦手で……」

「得意そうには見えないな」

「ひどい」

「いや、なんか雰囲気で」

「雰囲気で人を判断しないでください」

「卵焼き醤油だけで作るやつに言われたくない」

「まだ引っ張るんですか、それ」


 小由希が少しだけ頬を膨らませる。

 その反応が年相応で、清人は少しだけ気が抜けた。


「……見せてくれ」


 小由希の表情が少し曇る。

 巻き込むべきじゃない。

 でも、一人では抱えきれない。

 そんな迷いが、その沈黙に滲んでいた。

 やがて、小由希は観念したみたいにノートを差し出す。


「……お願いします」


 清人はノートを受け取った。

 紙から微かに煙の匂いがする。

 火事の残り香なのかもしれない。

 ページをめくる。

 細かな数字。

 企業名らしき略称。

 走り書きのメモ。

 その中に、“28”だけが何度も現れていた。

 単独で書かれている場所。

 丸で囲われた箇所。

 矢印が伸びている場所。

 規則性がありそうで、掴めない。


「……なんだこれ」

「やっぱり分からないですよね」

「会計士が残したなら、意味のない数字じゃないと思うけど」


 清人はページを追う。

 そのうち、“28”という数字だけが妙に浮いて見え始めた。

 まるで、その数字だけこちらを見返しているみたいに。


「……何か分かりますか」


 小由希が不安そうに聞く。

 清人は眉間を押さえた。


「いや、まだ全然」

「……そうですよね」


 小由希は少しだけ肩を落とした。

 その顔が妙に申し訳なさそうで、清人は慌てて付け加える。


「でも、気になる」

「え?」

「なんか、この数字だけ引っかかる」


 清人はノートを閉じ、小由希へ返した。

 その瞬間だった。


 “28”。


 その数字が、胸の奥へ小さな棘みたいに刺さる。

 どこかで見た。

 どこかで聞いた。

 なのに思い出せない。

 清人は目を閉じる。

 そして、ふと思い出した。

 華子が昔、完全数の話をしていたことを。

 ──“完全数ってね、自分以外の約数を全部足すと、自分に戻ってくる数のことなの”

 指を折りながら話していた華子の顔が、鮮明に浮かぶ。

 柔らかな声。

 笑うと少し細くなる目。


 ──“6とか28とか……綺麗でしょう? ちゃんとバランスが取れてるの”

 ──“人もそういうふうになれたらいいのにね。誰かを大切にしたぶん、ちゃんと自分へ返ってくる人”


 28。

 完全数。

 清人はゆっくり息を吐いた。


「……屋久島さん?」


 小由希が不安そうに覗き込む。

 近い。

 思ったより睫毛が長いな、とどうでもいいことを考えてしまう。


「いや……ちょっと思い出しただけ」

「何をですか」

「昔のこと」


 清人は視線を逸らした。

 華子のことを、まだ他人へ上手く話せる気がしなかった。

 小由希もそれ以上は聞かなかった。

 部屋が静かになる。

 古い冷蔵庫の駆動音だけが低く響いていた。

 小由希はノートを抱え込みながら、小さく呟く。


「……私、ずっと怖かったんです」

「……」

「もし本当に、美緒さんが何か見つけてたならって思うと」


 そこで声が震える。


「火事、事故じゃないかもしれないって」


 清人はすぐには否定しなかった。

 証拠はない。

 考えすぎかもしれない。

 普通なら、そう言うべきなのだろう。

 でも。

 小由希の顔は、“思い込み”だけで怯えている顔じゃなかった。


「……怖かったんだな」


 小由希は少し目を見開く。

 それから、ゆっくり頷いた。


「はい」


 掠れた声だった。


「ずっと、怖かったです」


 その言葉は小さい。

 でも、誰にも言えなかった時間の重さが滲んでいた。

 清人は何も返せなかった。

 代わりに、窓の外を見る。

 朝の光が、少しずつ部屋へ差し込んでいた。

 世界は明るくなっていくのに、二人だけまだ夜の中へ取り残されているみたいだった。

 小由希はいつの間にかソファにもたれ、小さく舟を漕ぎ始めている。

 限界だったのだろう。

 清人はその横顔をぼんやり見つめる。――偶然のはずだ。

 山で会ったことも。“カノン”という曲の話も。28という数字も。全部、ただ偶然が重なっただけ。

 ──でも。

 その“偶然”は、しばらく清人の胸の奥で静かに根を張り続けていた。



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