10
料理を食べ終えたあとも、二人は特に何をするでもなく、ローテーブルを挟んで向かい合っていた。
窓の外では、朝がゆっくり街を白く染め始めている。
遠くを走る電車の音。
隣室のドアが閉まる音。
世界は普通に朝を始めているのに、この部屋だけが夜の続きを引きずっていた。
清人はソファにもたれ、缶コーヒーを片手にぼんやりしていた。
小由希は床へ正座したまま、何かを見つめている。
その視線の先に、小さなノートがあった。
黒に近い紺色の表紙。
手帳ほどの大きさしかない薄い冊子。
けれど、不思議と目を引く。
まるで、中に“誰かの秘密”が閉じ込められているみたいだった。
小由希はそのノートを、両手で抱えるように持っている。
離したら最後、もう二度と何かを掴めなくなるみたいに。
清人が視線を向けると、小由希ははっとしたようにノートを胸元へ隠した。
「……なんだ、それ」
「な、なんでもないです」
「なんでもない隠し方じゃなかったけど」
小由希が目を逸らす。
誤魔化すのが下手な人間の反応だった。
清人は少しだけ苦笑する。
「別に取り上げたりしないって」
「……すみません」
「いや、謝るほどじゃ」
「癖なんです」
「何が」
「大事なもの、隠しちゃうの」
その言葉に、清人は少しだけ黙った。
小由希自身、“大事なものを失う怖さ”を知っている顔をしていた。
「……見せたくないなら別に見ない」
清人は缶コーヒーを口へ運ぶ。
冷めたブラックは妙に苦かった。
小由希はしばらくノートを見つめていたが、やがて小さく息を吐いて、ゆっくり手をどけた。
「美緒さんの……遺品なんです」
声は静かだった。
けれど、その静けさの下に緊張が滲んでいる。
「火事のあと、外に置いてあったバッグの中に入ってて……。警察の確認が終わって、私のところに回ってきました」
清人はノートを見る。
角は少し擦れているが、焦げた痕はなかった。
火の中から偶然残ったのか。
それとも、誰かが持ち出したのか。
朝の薄い光の中で見ると、そのノートだけ色が深く見える。
「中は読んだのか」
「少しだけ」
「何が書いてあった」
小由希はノートを開く。
けれど、すぐには清人へ見せなかった。
ページを撫でる指先が、かすかに震えている。
「……怖いんです」
「ん?」
「もし、本当に何か書いてあったらって思うと」
小由希は俯く。
「火事が事故じゃなかったって、証明される気がして」
清人は何も言わなかった。
小由希はしばらく黙り込んだあと、一つだけページを見つめながら呟いた。
「……“28”って数字が、何度も出てくるんです」
「28?」
「はい」
小由希が小さく頷く。
「ただの数字にも見えるんですけど……でも、何か意味がある気がして」
清人は缶を机へ置いた。
小さな金属音が、静かな部屋へ落ちる。
「他には?」
「企業名みたいなのとか……日付とか……あと記号みたいなものも」
「暗号っぽい?」
「そんな感じです」
小由希は困ったように眉を下げる。
「私、こういうの苦手で……」
「得意そうには見えないな」
「ひどい」
「いや、なんか雰囲気で」
「雰囲気で人を判断しないでください」
「卵焼き醤油だけで作るやつに言われたくない」
「まだ引っ張るんですか、それ」
小由希が少しだけ頬を膨らませる。
その反応が年相応で、清人は少しだけ気が抜けた。
「……見せてくれ」
小由希の表情が少し曇る。
巻き込むべきじゃない。
でも、一人では抱えきれない。
そんな迷いが、その沈黙に滲んでいた。
やがて、小由希は観念したみたいにノートを差し出す。
「……お願いします」
清人はノートを受け取った。
紙から微かに煙の匂いがする。
火事の残り香なのかもしれない。
ページをめくる。
細かな数字。
企業名らしき略称。
走り書きのメモ。
その中に、“28”だけが何度も現れていた。
単独で書かれている場所。
丸で囲われた箇所。
矢印が伸びている場所。
規則性がありそうで、掴めない。
「……なんだこれ」
「やっぱり分からないですよね」
「会計士が残したなら、意味のない数字じゃないと思うけど」
清人はページを追う。
そのうち、“28”という数字だけが妙に浮いて見え始めた。
まるで、その数字だけこちらを見返しているみたいに。
「……何か分かりますか」
小由希が不安そうに聞く。
清人は眉間を押さえた。
「いや、まだ全然」
「……そうですよね」
小由希は少しだけ肩を落とした。
その顔が妙に申し訳なさそうで、清人は慌てて付け加える。
「でも、気になる」
「え?」
「なんか、この数字だけ引っかかる」
清人はノートを閉じ、小由希へ返した。
その瞬間だった。
“28”。
その数字が、胸の奥へ小さな棘みたいに刺さる。
どこかで見た。
どこかで聞いた。
なのに思い出せない。
清人は目を閉じる。
そして、ふと思い出した。
華子が昔、完全数の話をしていたことを。
──“完全数ってね、自分以外の約数を全部足すと、自分に戻ってくる数のことなの”
指を折りながら話していた華子の顔が、鮮明に浮かぶ。
柔らかな声。
笑うと少し細くなる目。
──“6とか28とか……綺麗でしょう? ちゃんとバランスが取れてるの”
──“人もそういうふうになれたらいいのにね。誰かを大切にしたぶん、ちゃんと自分へ返ってくる人”
28。
完全数。
清人はゆっくり息を吐いた。
「……屋久島さん?」
小由希が不安そうに覗き込む。
近い。
思ったより睫毛が長いな、とどうでもいいことを考えてしまう。
「いや……ちょっと思い出しただけ」
「何をですか」
「昔のこと」
清人は視線を逸らした。
華子のことを、まだ他人へ上手く話せる気がしなかった。
小由希もそれ以上は聞かなかった。
部屋が静かになる。
古い冷蔵庫の駆動音だけが低く響いていた。
小由希はノートを抱え込みながら、小さく呟く。
「……私、ずっと怖かったんです」
「……」
「もし本当に、美緒さんが何か見つけてたならって思うと」
そこで声が震える。
「火事、事故じゃないかもしれないって」
清人はすぐには否定しなかった。
証拠はない。
考えすぎかもしれない。
普通なら、そう言うべきなのだろう。
でも。
小由希の顔は、“思い込み”だけで怯えている顔じゃなかった。
「……怖かったんだな」
小由希は少し目を見開く。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい」
掠れた声だった。
「ずっと、怖かったです」
その言葉は小さい。
でも、誰にも言えなかった時間の重さが滲んでいた。
清人は何も返せなかった。
代わりに、窓の外を見る。
朝の光が、少しずつ部屋へ差し込んでいた。
世界は明るくなっていくのに、二人だけまだ夜の中へ取り残されているみたいだった。
小由希はいつの間にかソファにもたれ、小さく舟を漕ぎ始めている。
限界だったのだろう。
清人はその横顔をぼんやり見つめる。――偶然のはずだ。
山で会ったことも。“カノン”という曲の話も。28という数字も。全部、ただ偶然が重なっただけ。
──でも。
その“偶然”は、しばらく清人の胸の奥で静かに根を張り続けていた。




