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清人のマンションは、駅から徒歩十分ほど離れた場所にある古い雑居ビルの四階だった。
築何年なのかも分からない灰色の建物は、夜の中で湿ったコンクリートみたいに沈んでいる。
一階には昼間しか開いていない弁当屋と、色褪せた看板のクリーニング店。
入口脇の蛍光灯は半分ほど切れていて、白い明滅を繰り返していた。
小由希はビルを見上げ、小さく息を吐く。
「……秘密基地みたいですね」
「もっとマシな秘密基地あるだろ」
清人は苦笑しながら階段へ向かった。
エレベーターはない。
階段は狭く、足音がやけに響いた。
ぎし、ぎし、と鉄の手すりが軋む。
その音は、静まり返った夜の建物の中で妙に大きく聞こえる。
小由希は清人の半歩後ろを歩いていた。
ベージュのコートはところどころ湿っていて、長い黒髪にはまだ夜露が残っている。
山で泣き続けたせいだろう。瞼は赤く、肌は月明かりみたいに白かった。
細い。
今にも折れそうなくらいに。
階段の途中、小由希の足元がわずかによろける。
清人は咄嗟に振り返り、腕を掴みかけて、途中で止めた。
「……大丈夫か」
「……はい」
「さっきからそれしか言わないな」
小由希は少しだけ困ったように笑う。
「便利なので」
「万能ワード扱いするな」
その返しに、小由希はほんの少しだけ口元を緩めた。
四階へ着くころには、彼女の呼吸は少し乱れていた。
「悪いな。ボロくて」
「……なんだか安心します」
「どこに安心要素あった?」
「ちゃんと人が住んでそうで」
その答えに、清人は少しだけ黙る。
“ちゃんと人が住んでいる”。
そんな言葉を、自分の部屋に向けられたことがなかった。
鍵を回し、扉を開ける。
「……狭いぞ」
「はい」
「かなり古い」
「はい」
「あと、片付いてない」
「はい」
返事が素直すぎて、清人は眉を寄せた。
「文句言うなよ」
「言いません」
「……ならいいけど」
部屋へ入ると、微かに紙とコーヒーの匂いがした。
六畳ほどのリビングに、小さなキッチン。
壁際には本棚が並んでいるが、収まりきらなかった本が床へ塔みたいに積まれている。
文芸誌。
推理小説。
哲学書。
映画雑誌。
机の上には赤字だらけの原稿。
開きっぱなしのノートパソコン。
吸い殻のない灰皿。
飲みかけのブラックコーヒー。
乱雑なのに、どこか静かな部屋だった。
生活に疲れた人間の匂いがする。――でも、完全には壊れていない。
小由希は玄関で靴を脱ぎながら、室内をゆっくり見渡していた。
「……なんか」
「ん?」
「屋久島さんの部屋って感じがします」
「どんな感じだよ」
「……寂しそうだけど、優しい感じ」
清人は返事に困った。
そんなことを言われたのは、たぶん初めてだった。
「本、たくさんあるんですね」
「仕事柄な」
「出版社勤め?」
「編集」
「小説とか?」
「ああ」
清人は床に積まれていた本をどけながら答える。
「売れない作家の尻叩いたり、締切に追われたり、胃痛くなったりする仕事」
「……大変そうです」
「大変だった」
“だった”。
その言葉に、小由希の目が少し揺れた。
「……元、ですよね」
清人の手が止まる。
部屋に小さな沈黙が落ちた。
「あ……すみません」
「いや」
清人は小さく息を吐いた。
「事実だし」
床へどさりと本を置く。
「まぁ、俺は向いてなかったんだろうな」
小由希は何も言わなかった。
ただ、静かに清人を見る。
その視線が妙に真っ直ぐで、清人は少しだけ目を逸らした。
「……見るなよ」
「見てません」
「見てるだろ」
「ちゃんと聞いてるだけです」
その返しに、清人は少しだけ笑う。
ほんの少しだけ。
でも、それは山で見せた苦笑とは違った。
「ここ使え」
ソファの上の本を床へ移す。
文庫本が雪崩みたいに崩れた。
「毛布は押し入れ。勝手に使っていい」
「……ありがとうございます」
小由希は深く頭を下げた。
その仕草が、ひどく丁寧だった。まるで誰かの家に上がることそのものへ罪悪感を抱いているみたいに。
「風呂、入るか」
「……あとで」
「遠慮してる?」
「ちょっと」
「遠慮されると逆に困る」
「……じゃあ、少しだけ借ります」
「おう」
清人は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、一口飲む。
その間も、小由希は部屋を静かに眺めていた。
本棚の端に、小さな写真立てがある。
若い女が笑っていた。
小由希は何も聞かなかった。否、聞けなかった。――その笑顔が、今はもうこの世にいない人のものだと、なんとなく分かってしまったから。
――――――
清人は眠れなかった。
ベッドへ横になっても、意識ばかりが冴えていく。
古いエアコンの低い駆動音。
遠くを走る終電の音。
隣の部屋で誰かが咳をする気配。
夜の生活音だけが、薄暗い部屋へ浮かんでは消える。
時計を見る。
午前二時過ぎ。
目を閉じれば、華子の顔が浮かんだ。
笑っていた顔。
怒った顔。
最後に会った日の横顔。
目を開けば、今日の出来事が順番に並ぶ。
職を失った。
金を失った。
昔の恋人が死んだ。
死ぬつもりで山へ行って、知らない女を連れて帰ってきた。
「……意味分かんねぇ」
乾いた声が漏れる。
人生が壊れるにしても、限度があるだろうと思った。
喉が渇き、清人はゆっくり起き上がる。
ドアを開けると、キッチンの灯りがついていた。
小由希がテーブルに座っている。
白いマグカップを両手で包み込みながら、窓の外をぼんやり見ていた。
柔らかな部屋着に着替えていて、長い髪は少し湿っている。
風呂へ入ったのだろう。
その姿は、山の上で死にそうな顔をしていた女とは少し違って見えた。
けれど、儚さだけは変わらない。
「……眠れないのか」
小由希が振り返る。
「……はい」
「俺もだ」
清人は冷蔵庫を開けた。
中には缶コーヒーが二本だけ残っている。
どちらもブラックだった。
「甘いのないけど、いるか」
「……いただきます」
プルタブを開ける音が、静かな部屋へ響く。
向かい合って座る。
窓の外では、遠くを走る車の音がかすかに聞こえていた。
しばらく、どちらも何も言わない。
でも、その沈黙は苦じゃなかった。
会話を探さなくていいことが、こんなにも楽だとは思わなかった。
小由希は缶コーヒーを一口飲み、少し眉を寄せる。
「……苦いですね」
「ブラックだからな」
「大人の味です」
「そんな歳変わんないだろ」
「屋久島さん、いくつですか」
「二十八」
「……思ったより若い」
「どういう意味だ」
「三十後半くらいかと……」
「地味に傷つくな」
小由希が少し笑う。
本当に少しだけ。
でもその笑顔は、ようやく“生きている人間の顔”に見えた。




