7
しばらく、風だけが木々のあいだを細く吹き抜けていく。
その音はどこか遠い波みたいで、耳を澄ませばするほど、自分が世界から切り離されていく気がした。
小由希は膝を抱えたまま俯いている。
清人は岩に腰掛け、手の中のライターをぼんやり眺めていた。
火なんて、ほんの少しのきっかけで人を殺せる。
そのくせ、凍えた心ひとつ温められない。
そんなことを考えているうちに、清人は自分でも驚くほど自然に口を開いていた。
「俺は……今日、会社をクビになった」
小由希の肩が、わずかに揺れる。
「……」
「貯金は、婚約してた女に全部持ってかれてた」
乾いた笑いが漏れた。
「結婚資金とか言ってさ。まあ、綺麗に騙されてたわけだ」
言葉にすると、急に現実味が増す。
まるで誰か別人の人生を説明しているみたいだった。
小由希は顔を上げた。
何も言わず、ただ静かに清人を見ている。
責めるでも、慰めるでもなく。
ただ「聞いている」という目だった。
その視線が、妙に痛かった。
「それで……今日、昔の恋人が死んだって聞いた」
夜風が吹く。
木々がざわめき、どこかで枝が軋んだ。
「……全部、今日ですか」
「全部、今日だ」
即答だった。
言葉にした瞬間、胸の奥へ鈍い重みが沈んでいく。
「まぁ、詐欺に関しては数日前だがな」
吐き捨てるように言う。
会社を失ったこと。
金を失ったこと。
誰かに裏切られたこと。
もう会えない人がいること。
それら全部が、たった数時間前に自分の上へ降ってきた。
まるで悪意のある神様が、退屈しのぎに人生を壊しているみたいだった。
小由希は少しのあいだ、清人の横顔を見つめていた。
「……それは」
彼女は言葉を探すように口を閉じる。
簡単な慰めでは届かないと、分かっている沈黙だった。
「……それは、つらかったですね」
静かな声だった。
同情ではない。
憐れみでもない。
ただ、そこにある痛みを、そのまま受け取ろうとする声音だった。
だからこそ、清人は少しだけ苦しくなる。
「つらいのかどうかも、もう分かんねぇよ」
小由希はすぐには返事をしなかった。
少し俯き、それから小さく息を吐く。
「……分からなくなるくらい、つらいんだと思います」
清人は返事ができなかった。
その言葉は妙に正確で、胸の奥へ静かに沈んできた。
夜空を見上げる。
星がやけに多かった。
東京では絶対に見えない数の星が、黒い空いっぱいに散らばっている。
まるで、誰かが硝子を砕いて夜へ撒いたみたいだった。
「……カノン、か。たしかヨハン・パッヘルベルだったか」
ふいに清人が呟く。
「え?」
「さっき言ってたろ。佳音って子が弾いてたって」
「……はい」
小由希が小さく頷く。
「俺の……大切な人も、好きだった曲だ」
その瞬間、小由希がわずかに息を飲んだのが分かった。
夜気の冷たさの中で、その反応だけが妙に鮮明だった。
「……そうなんですか」
「ああ」
短い沈黙が落ちる。
風が吹き、木々が揺れる。
どこか遠くで、夜鳥が鳴いた。
「……不思議ですね」
小由希がぽつりと言う。
「偶然だろ」
「……そうですね」
そう言いながらも、小由希の声には“偶然ではない”響きが残っていた。
清人はそれに気づく。
けれど、追及する気にはなれなかった。
今はまだ、誰かの秘密を暴けるほど元気じゃない。
ただ疲れていた。
深い水の底へ沈んでいくみたいに。
――どちらが先に立ち上がったのか、覚えていない。
気づけば、ふたりとも岩から腰を上げていた。
小由希がふらりと体勢を崩す。
「……大丈夫か」
反射的に声が出た。
「……はい」
「いや、大丈夫な顔してないけど」
小由希は少しだけ困ったように笑う。
泣き疲れた子どもみたいな、弱い笑みだった。
「……大丈夫じゃないです」
その正直さに、清人は小さく息を吐く。
自分だってまともじゃないくせに、と思う。
それでも、放ってはおけなかった。
「帰れる場所、あるか」
小由希は少し黙った。
言葉を探すというより、“帰る”という概念そのものを思い出そうとしているみたいな沈黙だった。
「……アパートが燃えたので」
「……ああ、そうか」
清人は山道の先を見る。
闇の向こうに、街の灯りがぼんやり滲んでいた。
まるで水底から見る灯篭みたいに、頼りなく揺れている。
それから、愛車へと視線を向けた。
「ソファがひとつある。狭いけど」
小由希が目を瞬かせる。
「……いいんですか」
「よくはない」
清人は苦笑した。
「普通に考えたら危ないし。会ったばっかの男だしな、俺」
「……じゃあ、なんで」
清人は少しだけ考えて、それから答える。
「今夜、お前をひとりにしたくない、から」
綺麗事ではなかった。
理由なんて、自分でもよく分からない。
ただ、この夜の中へ彼女をひとりで置いていったら、本当に消えてしまう気がした。
小由希は返事をしなかった。
ただ、小さく頷いて、清人の後ろを歩き出す。
車へ戻る道を、ふたりで歩く。
枯れ葉を踏む音が重なる。
その音だけが、静かな山の夜へ小さく響いていた。
青い合金の箱が、闇の中でじっと待っていた。――まるで、行き場をなくしたふたりを黙って受け入れる場所みたいに。




