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 しばらく、風だけが木々のあいだを細く吹き抜けていく。

 その音はどこか遠い波みたいで、耳を澄ませばするほど、自分が世界から切り離されていく気がした。

 小由希は膝を抱えたまま俯いている。

 清人は岩に腰掛け、手の中のライターをぼんやり眺めていた。

 火なんて、ほんの少しのきっかけで人を殺せる。

 そのくせ、凍えた心ひとつ温められない。

 そんなことを考えているうちに、清人は自分でも驚くほど自然に口を開いていた。


「俺は……今日、会社をクビになった」


 小由希の肩が、わずかに揺れる。


「……」

「貯金は、婚約してた女に全部持ってかれてた」


 乾いた笑いが漏れた。


「結婚資金とか言ってさ。まあ、綺麗に騙されてたわけだ」


 言葉にすると、急に現実味が増す。

 まるで誰か別人の人生を説明しているみたいだった。

 小由希は顔を上げた。

 何も言わず、ただ静かに清人を見ている。

 責めるでも、慰めるでもなく。

 ただ「聞いている」という目だった。

 その視線が、妙に痛かった。


「それで……今日、昔の恋人が死んだって聞いた」


 夜風が吹く。

 木々がざわめき、どこかで枝が軋んだ。


「……全部、今日ですか」

「全部、今日だ」


 即答だった。

 言葉にした瞬間、胸の奥へ鈍い重みが沈んでいく。


「まぁ、詐欺に関しては数日前だがな」


 吐き捨てるように言う。


 会社を失ったこと。

 金を失ったこと。

 誰かに裏切られたこと。

 もう会えない人がいること。


 それら全部が、たった数時間前に自分の上へ降ってきた。

 まるで悪意のある神様が、退屈しのぎに人生を壊しているみたいだった。

 小由希は少しのあいだ、清人の横顔を見つめていた。


「……それは」


 彼女は言葉を探すように口を閉じる。

 簡単な慰めでは届かないと、分かっている沈黙だった。


「……それは、つらかったですね」


 静かな声だった。

 同情ではない。

 憐れみでもない。

 ただ、そこにある痛みを、そのまま受け取ろうとする声音だった。

 だからこそ、清人は少しだけ苦しくなる。


「つらいのかどうかも、もう分かんねぇよ」


 小由希はすぐには返事をしなかった。

 少し俯き、それから小さく息を吐く。


「……分からなくなるくらい、つらいんだと思います」


 清人は返事ができなかった。

 その言葉は妙に正確で、胸の奥へ静かに沈んできた。

 夜空を見上げる。

 星がやけに多かった。

 東京では絶対に見えない数の星が、黒い空いっぱいに散らばっている。

 まるで、誰かが硝子を砕いて夜へ撒いたみたいだった。


「……カノン、か。たしかヨハン・パッヘルベルだったか」


 ふいに清人が呟く。


「え?」

「さっき言ってたろ。佳音って子が弾いてたって」

「……はい」


 小由希が小さく頷く。


「俺の……大切な人も、好きだった曲だ」


 その瞬間、小由希がわずかに息を飲んだのが分かった。

 夜気の冷たさの中で、その反応だけが妙に鮮明だった。


「……そうなんですか」

「ああ」


 短い沈黙が落ちる。

 風が吹き、木々が揺れる。

 どこか遠くで、夜鳥が鳴いた。


「……不思議ですね」


 小由希がぽつりと言う。


「偶然だろ」

「……そうですね」


 そう言いながらも、小由希の声には“偶然ではない”響きが残っていた。

 清人はそれに気づく。

 けれど、追及する気にはなれなかった。

 今はまだ、誰かの秘密を暴けるほど元気じゃない。

 ただ疲れていた。

 深い水の底へ沈んでいくみたいに。


 ――どちらが先に立ち上がったのか、覚えていない。

 気づけば、ふたりとも岩から腰を上げていた。

 小由希がふらりと体勢を崩す。


「……大丈夫か」


 反射的に声が出た。


「……はい」

「いや、大丈夫な顔してないけど」


 小由希は少しだけ困ったように笑う。

 泣き疲れた子どもみたいな、弱い笑みだった。


「……大丈夫じゃないです」


 その正直さに、清人は小さく息を吐く。

 自分だってまともじゃないくせに、と思う。

 それでも、放ってはおけなかった。


「帰れる場所、あるか」


 小由希は少し黙った。

 言葉を探すというより、“帰る”という概念そのものを思い出そうとしているみたいな沈黙だった。


「……アパートが燃えたので」

「……ああ、そうか」


 清人は山道の先を見る。

 闇の向こうに、街の灯りがぼんやり滲んでいた。

 まるで水底から見る灯篭みたいに、頼りなく揺れている。

 それから、愛車へと視線を向けた。


「ソファがひとつある。狭いけど」


 小由希が目を瞬かせる。


「……いいんですか」

「よくはない」


 清人は苦笑した。


「普通に考えたら危ないし。会ったばっかの男だしな、俺」

「……じゃあ、なんで」


 清人は少しだけ考えて、それから答える。


「今夜、お前をひとりにしたくない、から」


 綺麗事ではなかった。

 理由なんて、自分でもよく分からない。

 ただ、この夜の中へ彼女をひとりで置いていったら、本当に消えてしまう気がした。


 小由希は返事をしなかった。

 ただ、小さく頷いて、清人の後ろを歩き出す。

 車へ戻る道を、ふたりで歩く。

 枯れ葉を踏む音が重なる。

 その音だけが、静かな山の夜へ小さく響いていた。

 青い合金の箱が、闇の中でじっと待っていた。――まるで、行き場をなくしたふたりを黙って受け入れる場所みたいに。

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