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沈黙が落ちた。
まるで夜そのものが、ふたりのあいだへ静かに腰を下ろしたみたいだった。
山の上は、驚くほど静かだった。
遠くで風が木々を揺らしている。そのざわめきだけが、凍えた谷を渡る水のように、ゆるやかにふたりの間を通り抜けていく。
夜気は薄刃みたいに冷たく、吐いた息は白くほどけて、すぐ闇へ消えた。
清人は、どうすればいいのか分からなかった。
帰れと言うべきなのか。
それとも、何も聞かず立ち去るべきなのか。
けれど、放っておける空気ではなかった。
このまま目を離せば、彼女は風に攫われる紙片みたいに、どこか遠くへ消えてしまいそうだった。
だからといって、自分は誰かを救える人間でもない。
胸の奥には、誰かを引き留められるほど立派な言葉なんて、一つも残っていなかった。
結局、清人は少し離れた岩へ腰を下ろした。
石は、死んだ魚みたいに冷たかった。
ふと視線が、手元のライターへ落ちる。
どうやら無意識のまま持ってきてしまっていたらしい。
「……俺も、同じことしようとしてた」
吐く息に混じるような小さな声だった。
女が、ゆっくり顔を上げる。
瞼は赤く腫れていて、長いあいだ泣き続けた痕が、そのまま夜露みたいに残っていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
月明かりの中で、ライターを握る手だけが微かに震えている。
その震えは寒さのせいだけではないのだと、見なくても分かった。
「……なんで、やめたんですか」
掠れた声だった。
壊れた硝子の破片みたいに、かすかに震えている。
怯えにも似た響きがあった。
「やめてない」
清人は短く答えた。
「お前がいたから、できなかっただけだ」
「…………」
女は俯いたまま黙り込む。
その沈黙は妙に重く、冬の湖の底みたいに深かった。
「お前こそ、なんでこんな場所に来たんだよ」
問いかけると、彼女はライターを握ったまま膝を見つめた。
「……人がいない場所を探してました」
「なんで」
「……誰にも見られたくなかったから」
その答えに、清人はわずかに眉を寄せる。
誰にも見られず死にたい、なんて。
まるで傷んだ獣が、最期だけは巣穴へ隠れるみたいだった。
「……死ぬなよ」
言ったあとで、自分でもおかしいと思った。
死のうとして山へ来た人間が、同じように死のうとしている相手へ“死ぬな”と言っている。
滑稽だった。
笑えない冗談だった。
けれど、それ以外の言葉が見つからなかった。
女は少しだけ顔をこちらへ向けた。
月に照らされた横顔は、雪へ薄墨を流したみたいに青白く、ひどく疲れて見えた。
「……八十島、小由希といいます」
唐突な自己紹介だった。
けれど清人には、それが“あなたを拒絶しません”という、かすかな灯みたいに思えた。
「屋久島清人だ」
「……屋久島さん」
自分の名前が、静かな夜へ溶けていく。
それは不思議と嫌じゃなかった。
少なくとも今だけは、完全にひとりではない気がした。
少し間を置いてから、清人は口を開く。
「……何があったんだ」
小由希はすぐには答えなかった。
風が吹き、長い髪が揺れる。
黒髪は夜の水みたいに淡く波打って、月光を細く絡め取っていた。
彼女は視線を落としたまま、ゆっくり呼吸を整えている。
何かを言葉にするには、それだけ時間が必要なのだと分かる沈黙だった。
やがて、小由希は細い声で話し始める。
「住んでたアパートが……燃えたんです」
「……火事か」
「放火、だと思ってます。でも警察は偶発的な事故だって」
そこで一度、声が止まる。
小由希は唇を噛み、小さく俯いた。
その横顔は、思い出に喉を締めつけられているみたいだった。
「同じアパートに、仲の良かった人たちがいて……」
その続きが出てくるまで、少し時間がかかった。
「佳音ちゃんっていう、十四歳の女の子と……そのお母さんの、美緒さん」
名前を口にした瞬間、小由希の声がわずかに震える。
「ふたりとも……亡くなりました」
清人は何も言えなかった。
慰めなんて、こんな夜には軽すぎる。
薄い紙みたいに、口にした途端破れてしまう気がした。
だからただ黙って、小由希の声を聞いていた。
「佳音ちゃん、ピアノが好きだったんです」
小由希は、夜空を見上げるように呟く。
「夜になると、よく“カノン”を弾いてて……。美緒さんも、すごく優しい人で。私が落ち込んでると、廊下でよく話しかけてくれました」
その声は、壊れものへ触れる指先みたいに静かだった。
「ふたりが死んで……私だけ残って」
そこで、小由希は一度言葉を飲み込む。
「それが……ずっと苦しくて」
「お前が悪いわけじゃないだろ」
清人は反射みたいに言った。
小由希は小さく頷く。
「分かってます」
「分かってるなら――」
「分かってても、苦しいんです」
その一言で、清人は口を閉じた。
理屈じゃないのだと分かってしまった。
人は、理解しただけでは救われない。
胸の傷は、正論じゃ塞がらない。
小由希は膝を抱え込む腕へ力を込めながら、続きを絞り出す。
「美緒さん、会社の不正なお金の流れを調べてたんです。会計士だったから……」
夜風が吹き抜ける。
その冷たさの中で、小由希の声だけが妙に熱を帯びて聞こえた。
「でも、それが誰かの邪魔になったんじゃないかって。火事はそのせいなんじゃないかって……ずっと思ってて」
「……それ、誰かに言ったか?」
「言えないです」
即答だった。
「証拠もないし……私が言ったところで、誰も信じないから」
小由希はさらに強く膝を抱え込む。
「……誰にも届かない気がして」
その言葉が、静かに清人の胸へ刺さった。
まるで、ずっと昔から自分の中にも、同じ暗い穴が空いていたみたいに。




