5
登山道の脇に車を停めた頃には、月はもう高く昇っていた。
青いインプレッサのボンネットが、白い月明かりを鈍く反射している。
エンジンを切ると、山の静けさが一気に押し寄せてきた。
風が木々を揺らす音だけが、遠くで擦れるように続いている。
清人は運転席に座ったまま、フロントガラス越しに夜空を見上げていた。
空は驚くほど澄んでいた。
都会では見えない数の星が、夜の奥に細かく散っている。冷えた空気のせいか、どの光もやけに鋭く見えた。
星座の知識なんてほとんどない。
けれど今夜に限っては、ただ並んでいるだけの星にさえ意味がある気がした。
遠い場所で。
誰にも知られないまま、光り続けているものがある。
「……華子なら、全部分かるんだろうな」
呟いた瞬間、喉の奥が詰まった。
華子は星の話が好きだった。
数学の話も好きだった。
『世界にはちゃんと法則があるんだよ』
楽しそうに笑う顔を思い出す。
生きていることにも意味があるのだと、あいつは本気で信じていた。
だから、胸が痛んだ。
「……ごめんな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
謝りたかったのかもしれない。
許してほしかったのかもしれない。
清人は小さく息を吐き、助手席へ視線を落とした。
練炭コンロ。
ガムテープ。
目張り用のビニール。
思っていたより、準備は単純だった。
けれど実際にやろうとすると、指先がうまく動かない。
テープを剥がす途中で千切ってしまい、舌打ちしながら貼り直す。窓の隙間を塞いで、また確認する。
そのたびに、胸の奥で何かが軋むみたいに痛んだ。
「……こんなもんか」
乾いた声が、狭い車内に沈む。
ふと、助手席の足元に置いた缶コーヒーが目に入った。
勇人にもらったやつだった。
帰り際、何も言わず押しつけるみたいに渡された一本。
清人はしばらくそれを見つめ、やがて静かに手に取った。
まだ少しだけ温かかった。
「……悪ぃな、勇人」
呟きながら、プルタブを開ける。
軽い音が、妙に大きく響いた。
一口だけ飲む。
ぬるくなった苦味が、ゆっくり喉を落ちていった。
火をつければ終わる。
あとは、眠るだけだ。
そう思った、そのときだった。
――ガンッ。
――ガンッ。
規則的な音だった。
硬い何かを、木か石に打ちつけているような音。
こんな時間に、こんな山の中で。
嫌な汗が背中を伝った。
獣じゃない。
こんなふうに、苛立ったみたいな音を立てるものじゃない。
人間――。
そう思った瞬間、余計に足が重くなった。
清人はゆっくりドアを開けた。
冷たい夜気が、密閉された車内へ鋭く流れ込んでくる。
音はまだ続いていた。
――ガンッ。
月明かりを頼りに、林の奥へ目を凝らす。
そのとき、小さな火花が闇の中で弾けた。
……火?
清人はさらに一歩踏み出す。
枝葉の隙間から見えたのは、しゃがみ込んだ人影だった。
肩を縮め、膝を抱えるように座り込み、震える手で細長い金属棒を握っている。
ファイヤースターターだった。
けれど火花は散るだけで、火種にはならない。
女は唇を噛みしめ、何度も擦る。
火花が散る。
失敗する。
また擦る。
そしてついに苛立ったように、それを近くの石へ叩きつけた。
――ガンッ。
「……」
清人は、そこでようやく音の正体を理解した。
壊れたと思ったのか。
叩けば直るとでも思ったのか。
追い詰められた人間がするには、あまりにも子供じみた行動だった。
それが、逆に胸を締めつけた。
「……誰かいるのか?」
声をかけた瞬間、その手がぴたりと止まった。
女が、ゆっくり顔を上げる。
月明かりが、その髪を淡く濡らしていた。
まるで、この世のどこにも居場所を見つけられなかったみたいに。
その背中は、あまりにも小さかった。
「……やめろよ」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
自分だって同じことをしようとしていたくせに。
目の前で誰かが死のうとしている姿を見ると、胸が締めつけられた。
「……俺の真似すんなよ」
弱々しく吐き出した言葉に、影がゆっくり顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、月明かりを受けて静かに揺れていた。
「……あなたも……死のうとしているんですか……?」
壊れかけたガラスみたいな声だった。
清人は息を呑む。
自分が死のうとしていた夜に、同じ場所で、同じように終わろうとしている人間がいる。
偶然にしては、出来すぎていた。――けれど、運命なんて言葉で片づけるには、その出会いはあまりにも生々しかった。




