4
「……今、なんて言った」
清人の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
勇人は、すぐには答えなかった。
卓上のジョッキには白く曇った水滴が浮き、それが硝子の肌を伝って、ゆるやかに落ちてゆく。店の奥では、酔客の笑い声がときおり弾け、そのたび油の匂いと煙草の煙が、ぬるい夜気みたいに揺れた。
けれど、そのどれもが遠い。
まるで深い水の底から、ぼんやり聞いているようだった。
「――金剛寺華子だよ」
やがて勇人が口を開く。
低い声だった。
「高校の時のお前の彼女。……事故だと」
その瞬間、清人は瞬きを忘れた。
耳の奥へ薄膜でも張られたように、店の喧騒がすうっと遠のいてゆく。笑い声も、皿の触れ合う音も、どこか別の世界の響きみたいだった。
「嘘だろ……勇人……」
「嘘じゃねぇ」
「ハナが……死ぬわけ……ねぇだろ……」
自分で喋っているはずなのに、その声は借り物みたいに頼りなかった。
勇人は視線を伏せ、小さく息を吐く。
「……トラックだったらしい。居眠り運転だと」
「……やめろよ」
「俺だって言いたくねぇよ」
その言葉のあと、二人のあいだへ重たい沈黙が落ちた。
店の隅で、氷がからんと鳴る。
「でも、お前には、ちゃんと伝えなきゃならなかった」
清人の喉が、ごくりと鳴った。
呼吸が浅い。
胸の奥へ冷たい水でも流し込まれたみたいに、じわじわと何かが満ちてくる。それは肺の襞へ沁み込み、内側から静かに塞いでいった。
「俺……あいつに、まだ謝れてねぇんだよ……」
「……ああ」
「ありがとうも……言えてねぇ……」
「知ってる」
「知ってるって……なんだよ……」
勇人は静かに言った。
「お前の顔見りゃ分かる」
「……」
「お前、別れてからも、ずっと引きずってたろ」
清人は俯いた。
テーブルの木目が、濡れた絵具みたいにぼやけて見える。
不意に、高校の帰り道が脳裏へ浮かんだ。
ハナは、よく笑う女だった。
どうでもいいことで笑い転げ、笑いすぎると息が続かなくなって、最後には涙まで滲ませていた。
冬の日には、湯気の立つ肉まんを半分くれた。
夏祭りでは、掬ったばかりの金魚を逃がしてしまい、二人で腹を抱えて笑った。
雨の日には、コンビニの軒先で一本の傘を分け合った。肩が触れるたび、ハナが小さく笑った。
そんな瑣末な記憶ばかりが、妙にはっきり蘇る。
まるで水面へ浮かぶ灯籠みたいに、暗い記憶の底から一つずつ揺れて現れるのだ。
なのに。
肝心の別れの日のことだけが、どうしても思い出せなかった。
その日だけ、記憶にぽっかり穴が空いている。
まるで最初から、そこだけ誰かに切り取られてしまったみたいに。
「……俺、強くねぇよ……」
震える声でそう言うと、勇人は小さく笑った。
「知ってるよ」
そう言って、清人が握り締めていた拳をゆっくり開かせる。
「泣け」
「……無理だよ」
「なんで」
「急すぎるだろ……こんなの……」
勇人は少し黙った。
店の奥で、誰かが笑う。
氷の触れ合う乾いた音が、やけに遠く聞こえた。
それから勇人は、静かに言った。
「泣くのに、準備なんかいらねぇだろ」
その瞬間だった。
胸の奥で、長いこと凍りついていた何かが、音もなく崩れた。
ぽたり、と涙が落ちる。
卓へ滲んだ雫は、灯りを受けて鈍く揺れた。
けれど次の涙は、すぐには落ちなかった。
壊れかけた古い蛇口みたいに、忘れた頃になってまた一滴、ぽつりと零れる。
清人は、自分が泣いていることさえ、どこか他人事みたいに感じていた。
勇人は横を向いたまま、何も見ていないふりをして酒を飲んでいる。
煙草の煙が、その横顔を薄く曇らせた。
その不器用な優しさが、たまらなく苦しかった。
「……ハナ」
その名を口にした途端、喉の奥が焼けるように痛んだ。
まるで、長いこと胸の底へ沈めていた硝子片が、いまさら肉を裂いて浮かび上がってきたみたいだった。
「清人」
勇人の声は低い。
叱るでもなく、慰めるでもなく、ただ夜の底へ沈む石みたいに静かな声だった。
「お前はまだ生きてる」
「……」
「それがどれだけ重てぇことか、ちゃんと考えろ」
その言葉は、酒臭い店の空気のなかで、不思議なくらい鮮明に響いた。
清人は返事をしなかった。――いや、返事というものの形を、もう喉が忘れてしまっていた。
ただ涙だけが、音もなく頬を伝った。
店の奥では、酔漢が腹の底から笑っている。テレビの中では、化粧じみた顔の芸人たちが甲高い声を張りあげていた。その賑やかさが、硝子を一枚隔てた向こうの出来事みたいに遠い。
提灯色の灯りは脂じみて濁り、煙草の煙は、水底の藻のように天井へ淀んでいた。
世界は、何事もなかったように続いてゆく。
ハナが死んでも。
自分のなかの何かが、音もなく砕け落ちても。
夜が明ければ、また朝は来るのだ。
白々とした朝の光が、何も知らぬ顔で街を照らすのだと思うと、清人はたまらなく恐ろしくなった。
その夜、彼はぼんやりと考えていた。
いっそこのまま、どこか人のいない暗がりへ歩いていって、静かに終わってしまえたなら――それも悪くないのかもしれない、と。
―――
勇人と別れたあと一人歩いてた。
夜風は冷たかった。――それなのに、身体の奥だけが熱を持っている。
呼吸をするたび、胸の内側で硝子片が擦れるみたいに痛んだ。
駅前のイルミネーションが、濡れた舗道に滲んでいる。
赤や青の光は、水の底みたいにゆらゆら揺れていた。
若い男女が笑いながら通り過ぎていく。制服姿の女子高生たちはスマホを覗き込み、酔っぱらいは調子外れの歌を口ずさんでいた。
世界は、何も変わらず続いている。
ハナが死んでも。――自分の中の何かが壊れてしまっても。
街は平気な顔で灯りを点けている。
それが、たまらなく怖かった。
まるで自分だけが、この世界から静かに剥がれ落ちていくみたいだった。
もう帰りたくなかった。
部屋へ戻れば、静かな天井がある。
脱ぎ散らかした服がある。
読みかけの本がある。
そして、その真ん中には自分だけがいる。
誰もいない部屋を想像しただけで、喉が塞がりそうになった。
朝なんて来なければいいと思った。
このまま、暗い水の底へ沈むみたいに消えてしまえたら。
そんなことばかり考えていた。
風が吹く。
コートの裾が小さく揺れた。
清人はゆっくり顔を上げる。
行き先は、もう決まっていた。
以前、取材の途中で偶然見つけた山道がある。
人も来ない。
電波も届かない。
昼間でも薄暗い場所だった。
湿った土の匂い。
黒い木々。
風に鳴る枝の音。
なぜだか今は、その景色ばかりが頭に浮かぶ。
まるで山そのものが、静かに自分を呼んでいるみたいだった。
「……もう、いいよな」
呟いた声は、夜の雑踏に溶けて消えた。
清人は歩き出す。
住宅街を抜けるたび、街灯は少しずつ減っていった。
自販機の灯りだけが、暗闇の中へぽつりぽつりと浮かんでいる。
やがて、小さな月極駐車場が見えてきた。
隅のほうに停まった青いインプレッサへ近づく。
昔は、この車が好きだった。
夜の道路を意味もなく走るだけで、どこへでも行ける気がしていた。
けれど今は、ただの箱にしか思えない。
清人はドアを開け、運転席へ座り込んだ。
車内には、冷えた空気と微かな芳香剤の匂いが残っている。
助手席には、ホームセンターの袋が置かれていた。
練炭コンロ。
ガムテープ。
着火剤。
全部、自分で買ったものだった。
エンジンはまだかけない。
静かな車内で、清人はしばらく俯いていた。
そのとき、不意にコンビニの灯りが目に入る。
白々とした光だった。
一瞬だけ、安心しかける。
あたたかな場所が、まだこの世に残っている気がした。
けれど清人は、すぐに目を逸らした。
あそこへ入れば、きっと温かい缶コーヒーを買ってしまう。
店員の「ありがとうございました」を聞いてしまう。
そんな些細なことで、自分はまた明日へ引き戻されてしまいそうだった。
だから彼は、静かにエンジンをかけた。
低い駆動音が、夜の静寂を小さく震わせる。




