表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/10

4

「……今、なんて言った」


 清人の声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 勇人は、すぐには答えなかった。

 卓上のジョッキには白く曇った水滴が浮き、それが硝子の肌を伝って、ゆるやかに落ちてゆく。店の奥では、酔客の笑い声がときおり弾け、そのたび油の匂いと煙草の煙が、ぬるい夜気みたいに揺れた。

 けれど、そのどれもが遠い。

 まるで深い水の底から、ぼんやり聞いているようだった。


「――金剛寺華子だよ」


 やがて勇人が口を開く。

 低い声だった。


「高校の時のお前の彼女。……事故だと」


 その瞬間、清人は瞬きを忘れた。

 耳の奥へ薄膜でも張られたように、店の喧騒がすうっと遠のいてゆく。笑い声も、皿の触れ合う音も、どこか別の世界の響きみたいだった。


「嘘だろ……勇人……」

「嘘じゃねぇ」

「ハナが……死ぬわけ……ねぇだろ……」


 自分で喋っているはずなのに、その声は借り物みたいに頼りなかった。

 勇人は視線を伏せ、小さく息を吐く。


「……トラックだったらしい。居眠り運転だと」

「……やめろよ」

「俺だって言いたくねぇよ」


 その言葉のあと、二人のあいだへ重たい沈黙が落ちた。

 店の隅で、氷がからんと鳴る。


「でも、お前には、ちゃんと伝えなきゃならなかった」


 清人の喉が、ごくりと鳴った。

 呼吸が浅い。

 胸の奥へ冷たい水でも流し込まれたみたいに、じわじわと何かが満ちてくる。それは肺の襞へ沁み込み、内側から静かに塞いでいった。


「俺……あいつに、まだ謝れてねぇんだよ……」

「……ああ」

「ありがとうも……言えてねぇ……」

「知ってる」

「知ってるって……なんだよ……」


 勇人は静かに言った。


「お前の顔見りゃ分かる」

「……」

「お前、別れてからも、ずっと引きずってたろ」


 清人は俯いた。

 テーブルの木目が、濡れた絵具みたいにぼやけて見える。

 不意に、高校の帰り道が脳裏へ浮かんだ。


 ハナは、よく笑う女だった。

 どうでもいいことで笑い転げ、笑いすぎると息が続かなくなって、最後には涙まで滲ませていた。

 冬の日には、湯気の立つ肉まんを半分くれた。

 夏祭りでは、掬ったばかりの金魚を逃がしてしまい、二人で腹を抱えて笑った。

 雨の日には、コンビニの軒先で一本の傘を分け合った。肩が触れるたび、ハナが小さく笑った。

 そんな瑣末な記憶ばかりが、妙にはっきり蘇る。


 まるで水面へ浮かぶ灯籠みたいに、暗い記憶の底から一つずつ揺れて現れるのだ。

 なのに。

 肝心の別れの日のことだけが、どうしても思い出せなかった。

 その日だけ、記憶にぽっかり穴が空いている。

 まるで最初から、そこだけ誰かに切り取られてしまったみたいに。


「……俺、強くねぇよ……」


 震える声でそう言うと、勇人は小さく笑った。


「知ってるよ」


 そう言って、清人が握り締めていた拳をゆっくり開かせる。


「泣け」

「……無理だよ」

「なんで」

「急すぎるだろ……こんなの……」


 勇人は少し黙った。

 店の奥で、誰かが笑う。

 氷の触れ合う乾いた音が、やけに遠く聞こえた。

 それから勇人は、静かに言った。


「泣くのに、準備なんかいらねぇだろ」


 その瞬間だった。

 胸の奥で、長いこと凍りついていた何かが、音もなく崩れた。

 ぽたり、と涙が落ちる。

 卓へ滲んだ雫は、灯りを受けて鈍く揺れた。

 けれど次の涙は、すぐには落ちなかった。

 壊れかけた古い蛇口みたいに、忘れた頃になってまた一滴、ぽつりと零れる。

 清人は、自分が泣いていることさえ、どこか他人事みたいに感じていた。

 勇人は横を向いたまま、何も見ていないふりをして酒を飲んでいる。

 煙草の煙が、その横顔を薄く曇らせた。

 その不器用な優しさが、たまらなく苦しかった。


「……ハナ」


 その名を口にした途端、喉の奥が焼けるように痛んだ。

 まるで、長いこと胸の底へ沈めていた硝子片が、いまさら肉を裂いて浮かび上がってきたみたいだった。


「清人」


 勇人の声は低い。

 叱るでもなく、慰めるでもなく、ただ夜の底へ沈む石みたいに静かな声だった。


「お前はまだ生きてる」

「……」

「それがどれだけ重てぇことか、ちゃんと考えろ」


 その言葉は、酒臭い店の空気のなかで、不思議なくらい鮮明に響いた。

 清人は返事をしなかった。――いや、返事というものの形を、もう喉が忘れてしまっていた。

 ただ涙だけが、音もなく頬を伝った。

 店の奥では、酔漢が腹の底から笑っている。テレビの中では、化粧じみた顔の芸人たちが甲高い声を張りあげていた。その賑やかさが、硝子を一枚隔てた向こうの出来事みたいに遠い。

 提灯色の灯りは脂じみて濁り、煙草の煙は、水底の藻のように天井へ淀んでいた。

 世界は、何事もなかったように続いてゆく。

 ハナが死んでも。

 自分のなかの何かが、音もなく砕け落ちても。

 夜が明ければ、また朝は来るのだ。

 白々とした朝の光が、何も知らぬ顔で街を照らすのだと思うと、清人はたまらなく恐ろしくなった。

 その夜、彼はぼんやりと考えていた。

 いっそこのまま、どこか人のいない暗がりへ歩いていって、静かに終わってしまえたなら――それも悪くないのかもしれない、と。



―――


 勇人と別れたあと一人歩いてた。

 夜風は冷たかった。――それなのに、身体の奥だけが熱を持っている。

 呼吸をするたび、胸の内側で硝子片が擦れるみたいに痛んだ。

 駅前のイルミネーションが、濡れた舗道に滲んでいる。

 赤や青の光は、水の底みたいにゆらゆら揺れていた。

 若い男女が笑いながら通り過ぎていく。制服姿の女子高生たちはスマホを覗き込み、酔っぱらいは調子外れの歌を口ずさんでいた。

 世界は、何も変わらず続いている。

 ハナが死んでも。――自分の中の何かが壊れてしまっても。

 街は平気な顔で灯りを点けている。

 それが、たまらなく怖かった。

 まるで自分だけが、この世界から静かに剥がれ落ちていくみたいだった。

 もう帰りたくなかった。

 部屋へ戻れば、静かな天井がある。

 脱ぎ散らかした服がある。

 読みかけの本がある。

 そして、その真ん中には自分だけがいる。

 誰もいない部屋を想像しただけで、喉が塞がりそうになった。

 朝なんて来なければいいと思った。

 このまま、暗い水の底へ沈むみたいに消えてしまえたら。

 そんなことばかり考えていた。

 風が吹く。

 コートの裾が小さく揺れた。

 清人はゆっくり顔を上げる。

 行き先は、もう決まっていた。

 以前、取材の途中で偶然見つけた山道がある。

 人も来ない。

 電波も届かない。

 昼間でも薄暗い場所だった。

 湿った土の匂い。

 黒い木々。

 風に鳴る枝の音。

 なぜだか今は、その景色ばかりが頭に浮かぶ。

 まるで山そのものが、静かに自分を呼んでいるみたいだった。


「……もう、いいよな」


 呟いた声は、夜の雑踏に溶けて消えた。

 清人は歩き出す。

 住宅街を抜けるたび、街灯は少しずつ減っていった。

 自販機の灯りだけが、暗闇の中へぽつりぽつりと浮かんでいる。

 やがて、小さな月極駐車場が見えてきた。

 隅のほうに停まった青いインプレッサへ近づく。

 昔は、この車が好きだった。

 夜の道路を意味もなく走るだけで、どこへでも行ける気がしていた。

 けれど今は、ただの箱にしか思えない。

 清人はドアを開け、運転席へ座り込んだ。

 車内には、冷えた空気と微かな芳香剤の匂いが残っている。

 助手席には、ホームセンターの袋が置かれていた。

 練炭コンロ。

 ガムテープ。

 着火剤。

 全部、自分で買ったものだった。

 エンジンはまだかけない。

 静かな車内で、清人はしばらく俯いていた。

 そのとき、不意にコンビニの灯りが目に入る。

 白々とした光だった。

 一瞬だけ、安心しかける。

 あたたかな場所が、まだこの世に残っている気がした。

 けれど清人は、すぐに目を逸らした。

 あそこへ入れば、きっと温かい缶コーヒーを買ってしまう。

 店員の「ありがとうございました」を聞いてしまう。

 そんな些細なことで、自分はまた明日へ引き戻されてしまいそうだった。

 だから彼は、静かにエンジンをかけた。

 低い駆動音が、夜の静寂を小さく震わせる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ