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 駅前には、雨上がりの匂いが沈んでいた。

 昼間に降った雨は、まだアスファルトの裂け目に薄く溜まり、逃げ遅れた夜を抱えている。

 街灯の光はその水たまりへ溶け、金魚の尾のようにゆらゆら揺れていた。

 足元だけが、ぼんやりと濡れた夢みたいに明るい。

 人は多かった。

 みんな、急ぐ理由を持って歩いていた。

 笑いながら肩をぶつけ合う学生。

 コンビニ袋を指に引っかけたサラリーマン。

 誰かに甘えるみたいな声で電話をしている女。

 その全部が、自分とは違う季節を生きているように見えた。

 清人は俯いたまま歩く。

 人の顔を見るのが嫌だった。

 幸福そうな顔も。

 疲れ果てた顔も。

 どちらももう、自分とは関わりのない生き物みたいだった。

 居酒屋街へ入ると、空気の肌触りが変わった。

 湿った煙草の匂い。

 焼き鳥の脂が焦げる匂い。

 アルコールの熱を含んだ、人いきれ。

 赤や橙の看板は、濡れた路面に滲んで反射し、街全体が安っぽい極彩色の夢みたいに揺れていた。

 まるで熱に浮かされた金魚鉢の底を歩いているようだった。

 勇人に指定された店は、古びた居酒屋だった。

 赤提灯はくたびれた心臓みたいに弱く灯り、暖簾は長年の油を吸って夜色に黒ずんでいる。

 入口の硝子戸には、無数の指紋が曇って残っていた。

 昔なら、こういう店を“味がある”と思えた気がする。

 けれど今日は、ただ疲れた人間だけが流れ着く、古い避難所にしか見えなかった。

 引き戸を開ける。

 途端、熱気が顔へぶつかった。

 笑い声。

 皿のぶつかる乾いた音。

 酔った男たちの濁った声。

 店の中だけ、巨大な胃袋みたいに騒がしかった。

 一瞬、軽い眩暈がした。


「いらっしゃいませー」


 店員の声が飛ぶ。

 清人は小さく頭を下げ、店の奥へ視線を向けた。

 勇人はすぐ見つかった。

 壁際の席で、大きな身体を窮屈そうに折り曲げて座っている。

 無愛想な背中だった。

 なのに、その背中だけが、この騒がしい店の中で唯一まともな形をしている気がした。

 勇人はこちらを見ないまま言う。


「遅ぇ」


 その声を聞いた瞬間、身体の奥に張りつめていたものが少しだけ緩んだ。

 自分でも気づかないうちに、ずっと息を止めていたらしい。

 清人は向かいへ腰を下ろす。

 テーブルの木目には、無数の傷が刻まれていた。

 醤油の染み。

 煙草で焦げた痕。

 人間の時間だけが、そこへ何層も染み込んでいる。

 目の前には、もうビールが置かれていた。

 ジョッキの表面を、水滴がゆっくりと滑り落ちていく。

 まるで誰かが汗をかいているみたいだった。


「飲め」


 勇人が短く言う。

 清人は何も答えず、ジョッキを持った。

 硝子が冷たい。

 一口、喉へ流し込む。

 苦味がを焼き、そのあとに頼りない炭酸だけが舌へ残った。

 何を飲んでも、味が遠い。

 勇人はしばらく何も聞かなかった。

 それがありがたかった。

 下手な慰めをされたら、たぶん途中で帰っていた。

 店内では、酔った男たちが大声で笑っている。

 テレビでは知らない芸人が騒いでいた。

 世界は、何事もなかったみたいに回っている。

 清人だけが、その回転から振り落とされてしまったみたいだった。


「……で」


 勇人がジョッキを置く。


「何があった」


 低い声だった。

 責めるでもない。

 慰めるでもない。

 ただ、逃げ道だけを静かに塞ぐ声だった。

 清人は視線を落とす。

 テーブルへ映った自分の輪郭が、店の灯りで歪んでいた。


「……クビになった」


 口にした瞬間、胃の奥へ鉛みたいな重さが沈んだ。

 勇人は少しだけ眉を動かす。


「マジか」

「ああ」

「いつ」

「今日」


 短い会話だった。

 けれど、その短さのほうが現実だった。

 余計な言葉を足せば、逆に嘘っぽくなる気がした。

 勇人は何か言いかけてやめ、代わりにビールを飲む。

 喉仏がゆっくり上下するのを、清人はぼんやり眺めていた。


「……お前、真面目すぎんだよ」


 ぽつりと勇人が言う。


「会社ってのはな、真面目な奴から先に壊れてく」


 清人は笑えなかった。

 課長に言われた言葉が蘇る。

 真面目すぎる。

 扱いにくい。

 そのたった数文字だけで、自分が積み重ねてきた時間全部が、急に安っぽい紙細工へ変わった気がした。


「あと――」


 清人はそこで詰まった。

 喉の奥に、小さな骨が引っかかっているみたいだった。


「……婚約してた女、詐欺だった」


 勇人の動きが止まる。

 数秒だけ、沈黙が卓の上へ落ちた。


「……やっぱりか」


 低い声だった。

 清人は顔を上げる。


「なんだよ、それ」

「いや……」


 勇人は視線を逸らした。


「お前、そういうの引っかかりそうだったから」

「どういう意味だよ」

「人信じすぎなんだよ、お前」


 清人は何も言えなかった。

 否定できなかった。

 信じていた。

 本当に、一度も疑わなかった。

 だから今、自分の記憶が少しずつ腐っていく。

 夜景を見た日。

 笑った顔。

 “好き”と言われた声。

 思い出すたび、綺麗だった記憶へ黒い染みがじわじわ広がっていく。

 口の奥には、鉄を舐めたみたいな味が滲んでいた。

 勇人はそんな清人を見ながら、珍しく言葉を選ぶ顔をしていた。

 この男は普段、躊躇わない。

 言うべきことを、そのまま口へ出す。

 けれど今は違った。

 沈黙が長い。

 それだけで、嫌な予感がした。


「……清人。このタイミングで言うのは気が引けるが、落ち着いて聞け」


 勇人の声が少し低くなる。

 テレビの笑い声が、急に遠くなった。


「――ハナちゃん、亡くなった」


 その瞬間。

 隣の席で誰かが皿を落とした。

 乾いた破裂音だけが、妙にはっきり耳へ残った。

 まるで世界に入った細い亀裂を、誰かが指でなぞったみたいに。

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