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スマホのアラームみたいだった。
前触れもなく、胸の奥に沈めていた記憶が鳴り出した。
止めようとするより先に、過去が勝手にめくれ上がる。
薄暗い部屋の天井を見つめながら、清人は浅く息を吐いた。
カーテンは閉めたままだった。
昼なのか夜なのかも曖昧な部屋だった。
テーブルの上には、飲みかけのペットボトルと、開きっぱなしのノートパソコン。
コンビニ弁当の容器は、もう何時間そこに置かれているのか分からない。
部屋には生活の匂いではなく、“止まった時間”の匂いがしていた。
静かだった。
冷蔵庫の低い駆動音だけが、遠くで生きているみたいに響いている。
その静けさの中で、不意に思い出してしまった。
――出会ったのは、偶然だった。
SNSのタイムラインに流れてきた映画の感想。
たまたま趣味が同じだった。
それだけだった。
最初は軽い言葉のやり取りだった。
好きな俳優。
嫌いなラストシーン。
どうでもいい話ばかりだった。
でも、その“どうでもいい”が増えていくたび、清人の生活の中に彼女の場所ができていった。
通知が来るのを待つようになった。
返信の速度に一喜一憂して、
「おやすみ」の一言だけで安心して、
声を聞けない夜は少し眠れなくなった。
気づけば、それが日常になっていた。
送られてきた写真を、今でも覚えている。
少し画質の荒い自撮りだった。
笑顔は自然で、背景のカフェは少し暗かった。
なのに、その写真だけ妙に温度があった。
初めて会った日のことも覚えている。
改札前で待っていた彼女は、写真より少しだけ幼く見えた。
緊張していたのか、笑うたび肩が小さく揺れていた。
夜景を見に行った帰り道。
人通りの少ない橋の上で、彼女は清人の手を握った。
少し汗ばんだ、小さな手だった。
その瞬間、自分はもう一人じゃないんだと思った。
「清人くんといると落ち着く」
その言葉を、何度も思い返した。
疲れた夜も、
仕事で怒鳴られた日も、
眠れない朝も。
その声だけで、生き返れる気がしていた。
プロポーズした夜のことも忘れられない。
店の照明は薄暗くて、窓の外には雨が降っていた。
震える指で指輪を差し出したとき、彼女は泣きながら笑った。
「ありがとう」
その涙を見た瞬間、清人は救われた気がした。
ようやく、自分も普通の幸せに触れられるのだと思った。
誰かと食卓を囲んで、
同じ家に帰って、
くだらないことで笑い合う。
そんな未来を、本気で想像してしまった。
――翌朝には、全部消えていた。
異様なくらい綺麗に。
部屋から、彼女の痕跡だけが抜き取られていた。
洗面所の歯ブラシ。
ベッド脇のヘアゴム。
充電器。
読みかけの雑誌。
昨夜までそこにあったはずなのに、何も残っていなかった。
最初、意味が分からなかった。
頭が理解を拒否した。
ただ、机の上に置かれた指輪だけが、異物みたいに光っていた。
置き去りにされたのは、たぶん指輪じゃない。
清人自身だった。
『最近多いんですよ、こういうケース』
警察署で聞いた声が蘇る。
そう、無くなったのは関係だけではなく、共有口座にいれていたお金――約1000万もの大金がきれいさっぱり無くなっていた。
無機質な蛍光灯。
紙コップの冷めたコーヒー。
事務的な口調。
『被害届はかなり来てます。でも、もう海外に逃げられてるケースも多くて』
相手は慣れていた。
人を騙して消える人間にも――騙されて崩れる人間にも。
その“慣れ”が、清人には苦しかった。
自分だけが特別に不幸なのだと思いたかった。
でも違った。
自分は大量にいる被害者のひとりでしかない。
恋をしていたつもりだった。
でも実際は、金を引き出すための手順の中にいただけだった。
思い出が全部汚れていく。
笑顔も、
涙も、
声も。
全部が演技だったのかもしれない。
そう考えるたび、胸の奥に黒い泥みたいなものが溜まっていった。
「……なんで、俺なんだよ……」
掠れた声が落ちる。
部屋は静かなままだった。
誰も答えない。
時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえた。
そのとき、スマホが震えた。
暗い部屋の中で、画面の光だけが浮かぶ。
〈井之頭勇人〉
その名前を見た瞬間だけ、胸の奥が少し温かくなる。
けれど同時に、怖くもなった。
こんな自分を見せたくなかった。
仕事を失って、
金も失って、
信じていた相手にも捨てられた。
空っぽだった。
人に会えば、自分の惨めさが形になってしまいそうだった。
だから出たくなかった。
でも、沈黙の中にいると息が詰まりそうで、
結局、清人は通話ボタンを押していた。
「……なに」
自分でも驚くくらい、声が死んでいた。
『おい清人』
勇人の声は低かった。
雑音混じりの通話越しでも分かる。
太くて、揺るがない声だった。
『……声どうした』
「別に」
『別にって声じゃねぇな』
沈黙。
その数秒だけで、勇人は全部察した気がした。
『今から来い』
「無理」
『無理じゃねぇよ』
「疲れてんだよ……」
『知ってる』
その言葉だけで、喉が詰まりそうになった。
『来なかったら迎えに行く』
強引だった。
昔からずっとそうだ。
でも、その強引さに何度も救われてきた。
清人は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……分かった」
電話が切れる。
部屋はまた静かになった。
さっきまでより、少しだけ冷たく感じた。
清人は重い身体を起こし、上着を掴む。
鏡は見なかった。
今の自分の顔を見たら、本当に壊れてしまいそうだったからだ。
玄関を開ける。
夜風が頬を刺した。
冬の匂いがした。
その冷たさだけが、まだ自分が現実にいることを教えてくれていた。




