1
朝の電車の揺れは、昨日までと何も変わらなかった。
レールの継ぎ目を踏むたび、車内が小さく軋む。吊り革が揺れ、窓ガラスがかすかに震える。その規則的な振動の中にいると、人は自分まで機械の一部になったような気がする。
清人はドア横に立ちながら、ぼんやりと窓に映る自分の顔を見ていた。
青白い顔だった。
寝不足のせいだと思おうとしたけれど、それだけじゃない気がした。
周囲の乗客たちはみんなスマホに視線を落とし、それぞれ別の世界に潜っている。
ニュース動画を見ているサラリーマン。
ゲームを周回している大学生。
化粧直しをしている女性。
誰も、誰にも興味がない。
その空気に紛れてしまえば楽なはずなのに、今日は胸の奥に、小さな骨みたいな違和感が引っかかっていた。
息を吸うたび、そこに触れてしまう。
理由は分からない。
ただ、今日の空気は少しだけ冷たかった。
会社のビルに入ると、エレベーターの蛍光灯がチカチカと瞬いた。
白い光が、清人の影を床へ細長く落とす。
一瞬だけ、その影が自分じゃないものみたいに歪んで見えた。
気のせいだ。
そう思ったのに、なぜか視線を逸らせなかった。
八階に着く。
開いた扉の向こうから、コーヒーとコピー機の熱っぽい匂いが流れてきた。
オフィスでは、もう何人かが仕事を始めていた。
「おはよ」
同僚の柏木が、パソコンの画面を見たまま片手を上げる。
「……おはよ」
「なんか顔死んでね?」
「いつもだろ」
「いや、今日は“もうすぐ死ぬ人”の顔」
軽口だった。
柏木はたぶん、何も考えていない。
なのに、その言葉だけ妙に耳の奥に残った。
清人は自席に座り、散らばったメモと未完の原稿に目を落とした。
昨夜、終電間際まで書いていた記事だった。
インタビュー音源を何度も聞き返して、言葉を削って、書き直して。
たった一文が気に入らなくて、三十分止まった。
そうやって積み重ねたものが机の上にあるのに、どうしても“途中”にしか見えなかった。
赤字だらけの原稿用紙の端を、指先でなぞる。
紙のざらつきが妙に生々しくて、清人は反射的に手を離した。
その瞬間、胸の奥の違和感が少しだけ強くなる。
嫌な予感という言葉を、頭の中で使いたくなかった。
使ってしまえば、本当に何か起こる気がしたからだ。
今日も、いつも通り始まる。
そう思い込もうとした。
けれど、その“いつも通り”が、今日はやけに遠かった。
――――――
午前十時。
パソコン画面の右下に、通知が表示された。
〈田中課長が呼んでいます〉
たったそれだけの文章なのに、胃の奥が重く沈んだ。
「え、また?」
柏木が眉を上げる。
「なんかやらかした?」
「知らねぇよ……」
「まぁ行ってこいって。帰ってきたら愚痴くらい聞くし」
その気軽さに、少しだけ救われて、少しだけ腹が立った。
清人は立ち上がる。
その瞬間、足元がわずかに揺れた。
めまい、というほどではない。
でも、自分の身体が自分のものじゃなくなる前触れみたいで気味が悪かった。
呼吸が浅い。
肺に入る空気が薄い膜みたいで、うまく酸素になってくれない。
会議室へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。
足音だけがやけに響く。
オフィスの喧騒はちゃんと後ろにあるはずなのに、ガラス一枚隔てた別世界みたいに遠かった。
一歩進むたび、不安が輪郭を持ちはじめる。
見たくない。
でも、もう分かっている気もする。
会議室の前で立ち止まったとき、清人は自分の手が汗ばんでいることに気づいた。
ドアノブが少し滑る。
「……失礼します」
中には田中課長が一人だけ座っていた。
午後前だというのに、部屋の空気は夕方みたいに薄暗い。
曇り空の光が、ブラインド越しに机へ落ちていた。
「屋久島、座ってくれ」
課長は腕を組んだまま言った。
いつもの嫌味っぽい顔じゃない。
もっと面倒なものを見る顔だった。
清人は椅子に腰を下ろす。
冷たい座面が、じわりと背中に広がった。
「……まぁ、こういう話、俺も嫌なんだけどな」
課長が息を吐く。
その吐息だけ妙に白く見えた気がした。
「会社、かなり厳しくてな。上から人員整理の話が来てる」
嫌な予感が、形になる。
「リストラだ。悪いが、お前も対象に入ってる」
一瞬、音が消えた。
エアコンの風も、廊下の気配も、全部どこかへ遠ざかる。
「……俺が?」
「そうだ」
「なんで……」
喉が張りつく。
「俺、ちゃんとやってきましたよ」
課長は目を逸らした。
「真面目なのは分かってる」
「だったら――」
「でもな、真面目なだけじゃ会社は回らないんだよ」
淡々とした声だった。
感情がないわけじゃない。
でも、もう決まったことを読み上げている声だった。
「今は利益優先だ。余裕がない。若いんだから、別の場所探せ」
別の場所。
その言葉が妙に軽く聞こえた。
ここで積み上げてきた夜とか、削った睡眠とか、必死に考えた言葉とか。
そういうもの全部、“別の場所”の一言で片づけられるのかと思った。
胸の奥が熱くなる。
怒りなのか、悔しさなのか、自分でも分からなかった。
ただ、自分という輪郭が少しずつ削られていく感覚だけがあった。
「……ふざけんなよ」
気づけば口から漏れていた。
「ん?」
「ふざけんなって言ってんだよ……!」
声がうまく出ない。
叫んだはずなのに、喉の奥で掠れて潰れた。
課長が眉をひそめる。
「そういう態度が問題なんだよ。感情的になっても何も変わらん」
何も言い返せなかった。
息が苦しい。
肺がうまく動かない。
この部屋だけ酸素が薄いみたいだった。
清人は立ち上がり、ゆっくり扉を開ける。
閉まる直前、冷たい空気だけが背中に貼りついた。
廊下に出る。
視界が少し滲んでいた。
誰かがこちらを見ている気がしたが、顔を上げたくなかった。
「……どうしたんですか?」
後輩の女性社員が声をかける。
清人は首を横に振った。
「……なんでもない」
キーボードの音。
電話の呼び出し音。
プリンタの駆動音。
世界は何も変わっていない。
変わったのは、自分だけだった。
ロッカーで荷物をまとめる。
指先がうまく動かない。
冷えて、少し震えていた。
エレベーターの鏡に、自分の顔が映る。
無表情だった。
なのに、目だけが赤かった。
ビルを出た瞬間、街の音が一気に押し寄せてきた。
車のクラクション。
誰かの笑い声。
遠くの工事音。
全部、自分とは関係のない世界の音みたいだった。
信号機の電子音だけが、やけに遠くで鳴っている。
「……終わったんだな」
呟いた声は風に消えなかった。
むしろ、自分の胸の奥へ沈んでいくみたいに、重く残り続けた。




