1話 逃亡
走れ。その言葉が、頭の奥で何度も反響していた。
深い場所、思考よりも奥にある何かが、私を突き動かしている。
走れ。止まるな。裸足のまま、廊下を駆ける。
床の冷たさが、異様なほど鮮明に伝わってくる。冷たい?
そんなことに違和感を覚えた瞬間、足裏に鋭い痛みが走る。
豊満なバストが揺れる。こんな状況で、そんな違和感を感じている自分もいた。
でも、この体は、思ったより動ける。
軽い。速い。しなやかだ。私の体じゃないのに。
ガラス片。血。ぬるりとした感触。痛い。
だが、妙にその痛みの実感があった。
まるで、今まで感じていた感覚よりも解像度が高い。
なんだ、これ? 思考がわずかに遅れる。
その遅れに、自分自身が追いつけていない。
「止まれ!」
背後から怒号。反射的に振り返る。黒い装備に包まれた男性達。
統一された動き、無機質な銃口。その奥にある目を見た瞬間、背筋が凍る。
あれは、人を見る目じゃない。
「対象確認。発砲許可。」
対象。その言葉が、耳の奥に引っかかる。
対象? どうして私のことを、そんな風に呼ぶのか?
次の瞬間、銃声。壁が弾け、破片が頬をかすめる。わずかに血が流れている。
温かい。リアルすぎる。夢じゃない。でも、現実とも思えない。
「右に曲がってください。」
頭の中の声が、あまりにも冷静に響く。
「誰だ?」
問いかける。返答はない。ただ、次の指示だけが来る。
「突き当たりを左。そのまま進んでください。」
なんで分かる? 監視されている? それとも・・・。
考えが途中で切れる。身体が、勝手に動いている。角を曲がる。
足が滑る。壁に手をついて体勢を立て直す。その瞬間、視界に映る手。
細い。白い。血に濡れている。だが、それ以上に違和感があった。
こんな手じゃなかったはずだ。記憶の中の自分の手と、明らかに違う。
なのに、違和感と同時に、馴染んでいる感覚がある。
なんでだ? 心臓が、強く波を打つ。走りながら、断片的な記憶が浮かぶ。
事故、爆発、光。そして・・・。
「あなたには、これから別の人生を生きてもらいます。」
あの声。なんだ、これは・・・。
思い出そうとすると、ノイズのように掻き消える。
まるで、そこだけ触れてはいけないみたいに。
「そのまま進んでください。階段を下りて。」
声は変わらず冷静だ。だが、その冷静さに違和感が混ざる。
こいつ、本当に味方か? 疑念が浮かぶ。その瞬間、頭の奥に鈍い痛みが走る。
「これは?」
思考が、強制的に切り替わる。
「今は考えないでください。」
声が、ほんのわずかに強くなる。今、何を考えようとした? 思い出せない。
さっきまであったはずの疑問が、綺麗に消えている。なんだこれは?
寒気が走る。階段に飛び込む。その瞬間、銃弾が降る。火花、破片、衝撃。
「まずい!」
一歩、ズレていたら終わっていた。それが分かる。分かりすぎる。
なんで、こんなに分かる? 自分の動きが、予測できている。
まるで最適化されているように。
転げ落ちるように階段を駆け下りる。足首が悲鳴を上げる。
でも、止まれない。生きたい。その感情だけが異様に強い。
強すぎる。こんなに執着してたか? 自分で、自分に違和感を覚える。
一階。扉を蹴り開ける。光。そして爆音。振り返る。
さっきまでいた病院の上階が吹き飛ぶ。
炎、煙、崩壊。現実が、理解を拒否する。
「ありえない・・・。」
病院を? その瞬間、頭の奥で何かが引っかかる。
ありえない? 本当に? いや知ってる?
その感覚に触れた瞬間だった。
「走ってください!」
声が強く割り込む。思考が切断される。外に出る。
熱風、焦げた匂い、遠くのサイレン。だが、近くには誰もいない。
不自然な静けさ。囲まれてる?
その考えが浮かんだ瞬間、視界が上へ引っ張られる。
ドローン。小さな黒い影。だが、あれは一機じゃない。複数。
整列し、私に照準を合わせて飛んでくる。
まるで、逃げ道を誘導するように。
「建物の影に入ってください!」
飛び込む。直後、爆発。地面に叩きつけられる。息ができない。
肺が痙攣する。終わった。
「まだ生きています。」
声が、淡々と告げる。なんで分かる? 生死すら確認済みのような口調。
立ち上がる。視界が揺れる。でも、立てる。耐えてる? このダメージで。
普通なら動けないはずなのに。私、本当に人間なのか? その疑問が浮かぶ。
だが、否定する材料もない。柵が見える。その向こうに校舎。
「そこを越えてください。」
言われるまま、柵に手をかける。高い。だが、いける。
なぜか確信がある。体が軽い。筋肉の動きが分かる。
最適な力のかけ方が分かる。誰の感覚だ、これは?
登る。越える。飛び降りる。砂が舞う。痛み。でも止まらない。
黒いワゴン車。運転席の男が手を振る。
「早く!」
振り返る。煙の中から、黒い影。銃。間に合わない。
そう思った瞬間、体が先に動いていた。車に飛び込む。ドアが閉まる。発進。
「はぁ、はぁ。」
呼吸が乱れている。全身が震えている。でも、どこか冷静な部分が残っている。
おかしい。恐怖に支配されきっていない。まるで、どこかが切り離されている。
「無事でよかったです。」
その声で、背筋が凍る。同じだ。頭の中の声と。
「お前は誰だ?」
男は、ゆっくりとこちらを見る。
「初めまして。リーダー。」
心臓が跳ねる。
「私はサブリーダー、三宅です。」
リーダー? 理解できない。だが、それ以上に恐怖感に包み込まれる。
この男性、言葉は丁寧。でも、凄み、威圧感、過去にない感覚。
どこまでも広がる闇。この男性の目の中にあった。
何を考えているのか分からない。
ただただ、闇が広がる。人間のものとは思えない暗闇が。
どんな生活を送れば、こんな目になるのだろう。
また、私には逃げる場所はないと無言で語っている。
この流れ、どこかで・・・。既視感。
でも、平凡に生きてきた私には、ありえない。
その時。車内のモニターが点灯する。ノイズ、映像、暗い部屋。そして・・・。
「は?」
息が止まる。そこに映っていたのは私だった。事故前の自分。
だが、違う。表情が違う。目が違う。何かがズレている。
そして、その隣に、妻。寄り添っている。自然に。違和感なく。
なんでだ? 思考が崩れる。
「誰なんだよ、あいつは?」
三宅が、静かに言う。
「あなたの人生は、すでに別の誰かに引き継がれています。」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で、何かが合致する。カチリと。
やっぱり。なぜか、納得しかける自分がいる。知ってた?
その感覚に気づいた瞬間、強い拒絶が走る。
「返せ。」
声が漏れる。
「返せ、私の人生を。」
その瞬間。画面の中の私がこちらを見た。確実に。監視映像のはずなのに。
視線が合う。そして、ゆっくりと笑う。まるで、最初から知っていたかのように。
映像が途切れる。沈黙。三宅が口を開く。
「この任務は、その真相を知ることでもあります。」
その時、私はまだ理解していなかった。この違和感の正体を。




