2話 誘惑
私は、あんな事故があっても生きていた。すっかり女性として。
しかも、テロリスト集団のリーダー候補として。
寒気を感じた時。三宅はいつの間にか背後にいた。
最初の仕事の依頼を私に伝える。
「ターゲットは、佐伯 結翔。」
三宅が差し出したデータを無言で見つめる。
整った顔。余裕のある笑み。全てを持っている人間の目。
「財界の中枢を握る男です。」
「どんなタイプなの?」
「女性に弱い人です。」
即答だった。
「それも、かなり。」
分かりやすい。私への期待も。
「で、どうするの。」
「惚れさせてください。その時に、一瞬、相手は油断する。その時に、殺害するための情報を、脳から盗みとってください。脳に埋め込まれているチップを通じてハッキングする。今のあなたなら簡単でしょう。」
こんなことをしていて、いいの? 相手は私のせいで殺害される。
罪悪感が体の中を駆け巡る。でも拒否することはできない。
三宅の無機質な表情に私の体は硬直する。
「できますよね。」
三宅のドスの効いた声。ただの音なのに、私をするどく突き刺す。
その直後に大きな音。三宅が机をいきなり叩きつける。
断れない。これまでのトレーニングの成果を信じて、やるしかない。
その夜。指定されたショットバーは静かだった。
薄暗い照明。低く流れる音楽。グラスの触れる音だけが響く空間。
私はカウンターに座り、一人で飲んでいた。
退屈そうに。少しだけ寂しそうに。
視線は合わせない。でも、気配は消さない。
来た。ドアが開く音。空気がわずかに変わる。
視線を向けなくても分かる。あいつだ。
足音が近づく。そして、私の耳元に声が聞こえた。
「隣、いいですか?」
低く、余裕のある声。
「どうぞ。」
ゆっくりと、目線だけを向ける。一瞬だけ、視線が絡む。すぐに外す。
それだけでいい。食いついた。分かる。視線が離れない。
呼吸がわずかに変わる。これなら、できる。
「一人ですか?」
「ええ。」
グラスを軽く回す。氷が音を立てる。
「退屈で。」
少しだけ、ため息を混ぜる。沈黙。
その隙を、相手は埋めたくなる。
「よければ、付き合いますよ。」
来た。
「そうね。」
少しだけ微笑む。それだけで十分だった。
会話は、適当でいい。内容なんてどうでもいい。
大事なのは、自分に興味があると思わせること。
視線を外すタイミング。笑うタイミング。触れそうで触れない距離。
全部、計算通り。
「面白い人だ。」
佐伯が言う。その目はもう、完全にこっちを見ていた。
落ちた。内心で呟く。
「場所、変えませんか?」
予想通りの言葉。
「いいわよ。」
少しだけ迷うフリをしてから、頷く。それだけで、特別感が生まれる。
部屋は最上階だった。広すぎる空間。ガラス越しの夜景。金の匂いがする。
「すごいわね。」
「いつものことですよ。」
嘘だなと思う。日頃から贅沢をしている人間は、こんな言い方をしない。
見せびらかしている。小さい人。どうでもいい。もうすぐ終わる。
距離が近づく。触れる。視線が絡む。呼吸が重なる。
「綺麗だ。」
「知っている。」
わざと、少しだけ強気に言う。驚いた顔。その隙がいい。
さらに引き込まれる。完全に主導権はこっちにある。
キス。触れるだけでいい。深くしない。じらす。
「じらすなよ。」
「嫌?」
笑う。逃げる。また近づく。それだけで、相手は離れられなくなる。
佐伯は私を抱く。自分の大切な物を私の体に入れる。何も付けずに。
そして、何度も、何度も。私の体を突く。
この時代、子供は生まれない。だから避妊という考えもない。
子供を埋めないのに、どうして男女のまぐわいは続くのかしら?
目的のない、ただの快楽。
心はしらけている。でも、演技で喘ぎ声を出し続ける。
この行為には未だに違和感がある。
それはそう。この体になって、まだ、それほど日は経っていないから。
佐伯が声をあげる。その瞬間が来た。
完全に心を開いた瞬間。警戒が消えた瞬間。
情報を奪える状態。今。意識を集中させる。脳の奥に触れる。
流れ込んでくる情報。予定。繋がり。守り。
全部の情報を抜く。一瞬だった。
「どうした?」
「なんでもない。」
微笑む。もう興味はない。目的は終わった。
「もう帰る。」
「もう少し、ゆっくりしていったらどうだ?」
「またね。」
振り向かない。それが一番効く。ドアを閉める直前、一度だけ振り返る。
「楽しかった。」
嘘。本当は、人を殺すことに怯えていた。そしてドアを閉める。
翌日、ニュースが流れる。
「財界の要人、佐伯結翔氏が交通事故により死亡。」
この組織が仕組んだに違いない。私が盗んだ情報から最適な場所で。時間で。
あの瞬間、あいつはもう終わっていた。
「見事でしたね。」
三宅の声。自分の手柄だと言わんばかり。
「完璧です。」
この前まで一緒にいた人はもうこの世にいない。
私が、死に追いやったのだと分かっている。吐き気がした。
手も震える。こんなことを続けていていいのかしら。
でも、もう私には、どこにも逃げ場はない。
三宅が私の心の中を探る。いつもの闇が広がる目で。恐ろしい。
本心を悟られてはいけない。強気な顔で話しを続ける。
「次はどうするの?」
画面に、新しい顔が映る。次のターゲット。もう戻れない。これは、私の役割だから。
そう思った、その時だった。不意に、頭の奥でノイズが走る。
「?」
一瞬、視界が歪む。誰かの記憶が、流れ込んできた。知らないはずの光景。
暗い部屋。モニターの光。誰かの後ろ姿。そして、その人物がゆっくりと振り返る。
「三宅?」
思わず声が漏れる。でも、違う。その表情は、私の知っている三宅じゃない。
研究者のような姿。探究心で溢れる。まるで、何かを観察しているような目。
その口が、ゆっくりと動く。
「適合率、想定以上だ。」
背筋が凍る。その瞬間、別の声が重なる。
「感情残存あり。だが問題ない。いずれ消える。」
何の話かしら? 誰に言っているの?
理解が追いつかないまま、映像はさらに流れ込む。
ガラス越しに横たわる誰か。その脳に、チップが埋め込まれていく。
その顔が、はっきりと見えた瞬間。
「これって私?」
心臓が跳ね上がる。次の瞬間、記憶が途切れた。
「どうしました?」
三宅の声で、現実に引き戻される。私は、何もなかったように息を整える。
「なんでもない。」
でも、確信していた。今のは幻じゃない。私の中に、私じゃない何かがある。
三宅は、こちらを見て、わずかに笑った。
「そうですか。」
その笑顔に、再び寒気を感じた。
その晩、不思議な夢を見る。妻が知らない男性達と話す。
女性になって病院のベッドに横たわる私を見下ろす。何の表情もない顔で。
「あのミサイル事件、予定通りでしたね。」
「ええ。夫を、女性としてあの組織に送り込み、組織を内部から崩壊させる。準備は整ったわね。」
何を言っているのだろう。妻は、いつも私を支えてくれていた。
いつも笑顔で、幸せな時間と空間を与えてくれた。
私にとっては、もったいないぐらいの女性。
あの事件から多くのことがあり、混乱している。そうに違いない。
こんな、ありえない夢を見るなんて。
妻の醜い姿を夢であっても見てしまった自分を悔いる。
ただ、私の能力は格段に向上した。夢にも何か真実があるのかもしれない。
わずかな不安も感じながら、私は眠りに落ちる。




