プロローグ
鏡を見ると、見知らぬ20歳ぐらいの女性がいた。
私は、35歳のどこにでもいる男性だったのに。
あの事件から、私の不幸な人生が始まった。
眩しくて何も見えない。目の前で光が炸裂する。
爆音が空気を震わせる。無機質な音が頭の中で響き渡る。
運転席が宙を舞う。目の前の風景が回転した。
時間が止まった。その直後、再び、大きな衝撃と破壊音に包まれる。
道路に接したルーフが私を押しつける。目の前にはハンドルしか見えない。
顔は血だらけ。粉々になった窓ガラスの破片が突き刺さる。
手は骨折しているのか? 全く動かない。
周りはどうなっているのだろう? 顔をやっとのことで横に回す。
多くの車が衝突、横転。悲鳴に包まれ、人々が逃げ惑う。
早くここから逃げなくては。動けない。
体が座席に挟まれている。エアバックによって。
聞こえる。燃料のメタンが勢いよく漏れる音が。
計器類に火花が飛ぶ。それが見えた時だった。
ものすごい熱風が体を取り囲む。
車は周りを巻き込み炎上した。爆発音とともに。
最後に浮かんだのは妻の顔だった。妻は大臣秘書。
そんな重責にありながら、ごく普通の私に尽くしてくれている。
家庭を大切にしてくれている。本当にありがたいことだ。
まだ、死にたくない。妻との生活を続けたい。そこで、意識が途切れた。
目を覚ました時、私はベッドの上にいた。
静かすぎる部屋。規則正しい機械音。消毒液の匂い。
「生きてる?」
声を出した瞬間、違和感が走る。声のトーンが高い。私の声じゃない。
ゆっくりと手を持ち上げる。細い。白い。しかも若返っている。知らない手だった。
心臓が嫌な音を立てる。
「なんだよ、これ?」
ベッドから転がるように降りて、鏡に向かう。
そして固まった。そこにいたのは、私ではなかった。
20歳くらいの、見知らぬ女性が、息を荒げて立っていた。
「は?」
理解が追いつかない。事故の直前まで、私は男性だった。
普通に働いて、普通に結婚して、普通に生きていた。
それなのに、なんで。どうして女性になってるんだ。
頭には縫い合わせた跡がある。脳を移植した?
異性のバックアップ体に脳を移植。生存率は圧倒的に低い。
そのために、性同一性障害の人でさえ、政府は禁止している。
強硬にすれば死刑になる。手術の時に、どこかで間違ったのだろうか。
その時だった。頭の奥に、知らない声が響いた。
「逃げてください。」
「誰だ?」
「警察が来ます。あなたを殺しに。」
一瞬、思考が止まる。殺す? 私を? なんで?
混乱している間にも、遠くで音がする。足音。怒号。
そして、銃声。乾いた音が、現実を突きつける。
「もう時間がありません。」
「意味が分からない。」
「あなたは今、テロリストのリーダーです。」
「は?」
「捕まれば、脳ごと消されます。」
血の気が引いた。理解はできない。
でも、本能が告げている。これは冗談じゃない。
「なんで私が?」
「説明は後です。走ってください。」
ドアの向こうで、誰かの気配が止まる。息を殺す。
ドアノブが、ゆっくりと回る。その瞬間、私は走り出していた。
理由なんて、どうでもよかった。ただ一つだけ分かっている。
このままだと、本当に殺される。
そして、私はまだ知らない。自分の体が、別の誰かに使われていることを。




