余計なこと
団地の四階だった。エレベーターのない棟で、階段を上がるたびに手すりの塗装が掌に触れた。どこかで同じことがあった気がして、手のひらを見た。塗装の粉はついていなかった。
依頼主は娘だった。三十代の終わりか、四十に入ったあたり。ドアの前で待っていた。鍵を開けながら、振り向きもせずに言った。
「父です。先月。処分するものと残すものは、私が立ち会って判断します」
「わかりました」
3DKだった。玄関を入ると、すぐに台所があり、奥にリビングと和室が二つ。窓は南向きで、午後の光が入っていた。
生活の匂いがした。たばこと、古い畳と、それからかすかに油の匂い。台所のコンロに中華鍋が伏せてあった。使い込まれた鉄の鍋で、底が黒く光っている。
娘はリビングの入り口に立った。腕を組んで、部屋を見渡した。タツヤは段ボールを組み立て、台所から仕分けを始めた。
食器棚を開けた。どんぶりが三つ。大きさが同じで、柄が違う。茶碗が二つ。箸が束になって引き出しに入っていた。割り箸が混じっている。コンビニの弁当についてくる箸を、洗って取っておいたのだろう。
引き出しの奥に、包丁が三本並んでいた。出刃、菜切り、柳刃。どれも年季が入っていたが、刃は研がれていた。柄の木が手の形に沿って擦り減っている。台所の道具はどれもそうだった。古びてはいるが、手入れが行き届いている。鍋底の黒い光り方も、コンロの五徳の汚れの落とし方も、道具を扱い慣れた人間のそれだった。
リビングに移った。座卓の上に新聞が広げてあった。二週間前の日付。テレビ欄に折り目がついている。座卓の脚の横に、灰皿が置いてあった。吸い殻が三本。フィルターの近くまで吸われている。
本棚はなかった。壁際に小さなカラーボックスがあり、中に競馬新聞の束と、電話帳と、何かのカタログが入っていた。カタログは健康食品のもので、どのページにも折り目がなかった。誰かに送られてきて、そのまま置いてあったのだろう。
和室に入った。布団が畳まれて隅に置いてある。枕カバーが黄ばんでいた。押し入れの中に衣類が入っていた。畳まれてはいるが雑で、引き出しの中で崩れている。
もう一つの和室は物置のようになっていた。古い扇風機、段ボール箱、スーツケース。スーツケースを開けた。中は空だった。
リビングに戻り、座卓の引き出しを開けた。保険証書、年金の通知、病院の領収書。薬の袋が何枚か。
その下に、手紙が一通あった。
封筒は白く、宛名は故人の名前。差出人の名前はなかった。封は開いていた。中を確認しようとして——
「それは置いてください」
娘の声だった。タツヤは手を止めた。封筒を引き出しに戻した。
「すみません」
「いえ。貴重品だけ分けてくれればいいので」
仕分けを続けた。台所の戸棚、洗面所、玄関の靴箱。古い革靴が二足と、サンダルが一足。下駄箱の上にアパートの鍵が一つ余分に置いてあった。どこの鍵かはわからない。
タツヤは靴を段ボールに入れた。余分な鍵を手に取り、娘に見せようとした。
「下駄箱の上に鍵が一つありましたが」
「知りません。処分で」
作業は順調に進んだ。段ボールを積み、番号を振り、処分と保管を分けた。娘はリビングの入り口から動かなかった。タツヤが物を手に取るたびに、処分か保管かを短い言葉で指示した。
包丁を新聞紙で包んでいたとき、娘がぽつりと言った。
「台所のものは全部処分で構いません。もう使う人がいないので」
タツヤは頷いた。娘はそれだけ言って、また黙った。
最後に台所に戻った。中華鍋が残っていた。コンロの上で伏せてある鍋を持ち上げた。重かった。鉄の厚みが手に伝わる。取っ手の木が油で黒ずんでいる。しかし滑らかだった。包丁の柄と同じように、長い時間をかけて手に馴染んだ木の感触だった。
タツヤは鍋を持ったまま、止まった。
もう使う人がいない、と娘は言った。道具のことを言っていた。しかしその言い方には、道具だけではない何かがあった。コンビニの割り箸を洗って取っておく人が、この鍋と包丁を手入れし続けていた。どんぶりが三つあった。一人暮らしの部屋に、三つ。
「お父さんは、お仕事で——」
「余計なことは言わなくていいです」
娘の声が遮った。静かだったが、迷いのない声だった。
タツヤは口を閉じた。娘はリビングの入り口に立っていた。腕を組んだまま、タツヤを見ていた。
「処分でいいです。鍋も」
「……はい」
段ボールに入れた。鍋の重さが段ボールの底を少し撓ませた。
言いかけた言葉が、まだ喉の奥に残っていた。お仕事で、何だ。料理をされていたんですか。そう聞いて、その先に何を続けるつもりだった。道具を手がかりにして、この人の人生を一つの筋書きに仕立てる。引退しても台所の道具だけは手入れし続けた料理人——そういう物語を。娘はそれを聞きたくなかった。
タツヤは残りの段ボールにガムテープを貼った。処分の箱が六つ、保管の箱が二つ。
玄関で靴を履いた。
「ありがとうございました」
娘は小さく頷いた。ドアの前で、タツヤが階段を下り始めるのを見ていた。
「あの——」
タツヤが振り返った。
「鍋は、やっぱり残します」
タツヤは段ボールの中から中華鍋を出した。新聞紙を剥がし、娘に渡した。娘は両手で受け取った。重さに少し体が傾いた。
何も言わなかった。言わなくてよかった、とは思わなかった。言えなかった、とも違う。
タツヤの中に、言葉が生まれる場所がなかった。あの鍋から何かを読んで、娘に渡すための物語を作る——その回路が、動かなかった。
階段を下りた。手すりに触れた。塗装が古くなっていたが、剥がれはしなかった。
車に乗り、エンジンをかけた。駐車場を出て、信号で止まった。
どんぶりが三つあった。一人暮らしの部屋に、三つ。あの手紙は誰からだったのか。余分な鍵はどこのものだったのか。
わからなかった。わからないまま、信号が青に変わった。




