語れない部屋
マンションの三階だった。南向きの角部屋で、日当たりがいい。ベランダの手すりに小さな物干しが出しっぱなしになっていた。洗濯ばさみが三つ、風に揺れている。
故人は六十七歳の女性。病院で亡くなった。依頼主は姪で、鍵を玄関先で渡すとき「全部お任せします、貴重品だけ分けてください」と言った。夕方にまた来ると言い残して駐車場に戻っていった。
一人になった部屋を見渡した。
二DKの間取り。生活の匂いがあった。どの部屋にもある種類の、古い油と洗剤がまざった匂い。
キッチンから始めた。コンロの横に調味料が並んでいた。醤油、みりん、酒、塩。ラベルがこちらを向くように揃えてある。食器棚には茶碗が三つ、皿が五枚。流しの下に片手鍋が二つとフライパン。どれも使い込まれているが、手入れされている。
リビング。ソファの右側の肘掛けだけが布地が薄くなっていた。いつも同じ場所に座っていた跡だった。テーブルの上にテレビ欄を切り抜いた新聞と、赤いボールペン。見たい番組にいくつか丸がつけてある。
寝室。引き出しに口紅が二本。同じ色だった。使いかけと、予備。本棚には文庫本が四十冊ほど。どれにもしおりは挟まっていなかった。読み終えた本だけが並んでいる。
壁にカレンダーがあった。十五日に「内科」と赤い字で書いてある。先月をめくった。同じ日に同じ文字。先々月も。
段ボールを組み立て、仕分けを始めた。引き出しを一つずつ開けた。裁縫箱。年賀状の束。保険証書。電池と輪ゴム。爪切り。体温計。
全部、あるべき場所に、あるべきものが入っていた。
タツヤは手を止めた。
何かを探していた。いつからそうなっていたのか、自分でもわからなかった。引き出しを開けるたびに、押し入れの奥に手を伸ばすたびに、何かを待っていた。団地の押し入れで菓子箱を見つけたときのような手触り。マスキングテープの家で、老眼鏡がテープの向こう側に落ちていたときの、あの感覚。物語の種のようなもの。
この部屋にはなかった。
ソファの肘掛け。テレビ欄の赤い丸。同じ色の口紅。読み終えた本。カレンダーの「内科」。どれもこの人の暮らしの跡だった。そしてそのどれからでも、物語は作れた。肘掛けの擦れから孤独を語ることもできる。口紅の予備から几帳面さを読み取ることもできる。しかしそれは、どの部屋のどの物にもできることだった。
祝儀袋のあった団地にも、台所に使い込まれた鍋があった。マスキングテープの家にも、衣装ケースに丁寧に畳まれた衣類があった。タツヤはそれらを素通りし、物語になりそうなものだけを拾い上げてきた。
この部屋には、拾い上げるものがない。あるいは、すべてが等しく拾い上げられる。それは同じことだった。
夕方、姪が戻ってきた。段ボールの数を確認し、貴重品の箱を開けて通帳と印鑑を見た。
「ありがとうございます」
姪は靴を履きかけて、玄関の段差に足を止めた。
「あの——何か、ありましたか。伯母がどういう……どんなふうに暮らしていたか、わかるようなもの」
「丁寧に暮らしていた方だと思います」
嘘ではなかった。部屋を見ればわかることだった。しかしそれは物語ではなかった。
姪は少し待った。タツヤがそれ以上何も言わないとわかると、小さく頷いて出ていった。
ベランダの物干しが目に入った。洗濯ばさみが三つ。干すものがなくなっても、そこにある。
鍵をかけ、マンションを出た。
六十七年の人生が段ボール八つに収まり、「丁寧」という一語に要約される。タツヤはその一語すら、物語にはできなかった。
*
翌週、依頼の電話があった。声の若い男で、母親が亡くなった、部屋を片付けてほしい、と言った。
「立ち会われますか」
「はい」
アパートの一階だった。木造で、玄関のドアが少しきしんだ。中に入ると、男が廊下の奥に立っていた。二十代の前半に見えた。Tシャツの首元がよれている。
六畳の和室だった。布団が敷いたままになっている。枕元に薬の袋と、水の入ったコップ。水面に薄く埃が浮いていた。
段ボールを組み立て、仕分けを始めた。男は部屋の入り口に立っていた。敷居の手前で止まったまま、中に入ってこない。背中を廊下の壁につけて、タツヤの手元を見ている。
タツヤは黙って作業を続けた。
押し入れを開けた。衣類が畳まずに詰め込まれている。その奥に紙袋があった。中を見た。毛糸の束と、編み棒が二本。そして編みかけのマフラーが入っていた。
青い毛糸だった。太い冬物の糸で、端から二十センチほど編まれて止まっている。編み目は均一ではなかった。
段ボールに入れようとした。
「それ」
と男が言った。手を止めた。
「母が編んでたやつです」
男は入り口から動かなかった。タツヤは編みかけのマフラーを手に持ったまま、そこに立っていた。
二十センチの編み地を見た。青い毛糸。不揃いな編み目。途中で止まっている。
前の現場のことが頭をよぎった。マンションの三階。ソファの肘掛け。テレビ欄の赤い丸。あの部屋では物語を語れなかった。どの物にも意味は差し込めたが、どれも本物ではなかった。
「誰のか、わかりますか」
男の声だった。低いが、かすかに震えていた。
タツヤは男を見た。Tシャツの首元が広く開いている。鎖骨が見えた。
マフラーは息子のためのものかもしれなかった。あるいは母親自身のものかもしれない。誰かに頼まれたのかもしれない。編み物の練習だったのかもしれない。わからなかった。
何も言うまいと思った。前の部屋で学んだことがあるとすれば、わからないことをわからないまま置いておくことだった。
男の顔を見た。
入り口に立ったまま、こちらを見ている。怒りでも悲しみでもなかった。待っている顔だった。誰かが何かを言ってくれるのを、ただ待っている。この部屋に一つでも意味を置いてくれるのを。
黙っていることもできた。「わかりません」と言うこともできた。前の現場で姪に「丁寧に暮らしていた方だと思います」と言ったように、何か当たり障りのないことを言って終わらせることもできた。
しかしあの姪は頷いて出ていけた。この男は出ていけない。ここに立って、タツヤの言葉を待っている。言葉がなければ、この部屋に入れないまま終わる。
タツヤは編みかけのマフラーを少し持ち上げた。
「息子さんに編んでいたのかもしれませんね」
自分の声が聞こえた。静かな声だった。祝儀袋のことを息子に話したときと同じ声だった。
男はしばらく黙っていた。
「もらっていいですか」
「もちろん」
男が部屋に入った。敷居をまたいで、畳の上を歩いて、タツヤの前まで来た。手を出した。タツヤはマフラーを渡した。男は二十センチの青い編み地を両手で持って、少しの間見ていた。
それから廊下に戻り、自分の部屋に入っていった。
タツヤは作業を再開した。残りの衣類を段ボールに入れ、台所に移った。鍋が三つ。そのうちの一つの底が焦げついていた。焦げの上に、こすった跡がある。落とそうとして、途中でやめたのだろう。
段ボールに入れた。何も考えなかった。
作業を終え、玄関で靴を履いた。男が見送りに来た。
「ありがとうございました」
タツヤは頭を下げた。ドアを開け、外に出た。
車に乗り、エンジンをかけた。ハンドルに手を置いた。手のひらが少し湿っていた。
走り始めて十分ほどで、チェーンの牛丼屋が見えた。駐車場に入り、カウンターに座って並盛りを頼んだ。箸を割った。牛丼を口に入れた。甘い醤油の味がした。噛んで、飲み込んだ。
あのマフラーが本当に息子のためだったかどうか、タツヤにはわからない。わからないまま、そう言った。
箸を置いた。店を出ると、駐車場の街灯が白く光っていた。手のひらの汗は乾いていた。
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