数センチ
その家は住宅街の奥にあった。築三十年ほどの二階建てで、外壁のクリーム色はくすんでいたが、庭の植え込みは手入れされていた。門扉の横に表札が二枚ある。同じ苗字が並んでいるのを見て、タツヤは依頼書の内容を思い出した。夫が亡くなり、妻は施設に入った。娘が一人。
娘は三十代の半ばに見えた。玄関先で名刺を渡すと、受け取りもせずに中に入っていった。タツヤはその名刺をポケットに戻し、靴を脱いだ。
「二階の奥が父の部屋です。母の部屋はその手前。母の部屋には触らないでください」
階段を上がると、廊下に二つのドアが向かい合っていた。左が母、右が父。娘は父の部屋のドアを開け、一歩だけ中に入って立ち止まった。
「見ての通りです」と娘は言った。
八畳ほどの和室だった。畳の中央に、マスキングテープが一直線に貼られている。端から端まで、部屋を二つに分断するように。テープは古く、色が褪せて元の色がわからなくなっていたが、まっすぐだった。定規を当てて貼ったのだと思った。
テープの片側——窓に面した側——に、小さなテーブルと座椅子がある。テーブルの上には湯呑みが一つと、テレビのリモコン。壁際に衣装ケースが二つ重ねてあり、その横に本が十冊ほど積まれている。テープの反対側にも、ほぼ同じ配置でテーブルと座椅子があった。湯呑みが一つ、リモコンはない。テレビは窓側に一台だけだった。
「二人ともこの部屋にいたんですか」
「そうです。二十年くらい前から、ずっとこう。一階のリビングは誰も使ってませんでした」
娘は腕を組んだ。テープの線を見る目は冷たかった。
「信じられますか。同じ部屋にいるのに、真ん中に線を引いて、別々に暮らしてたんです。食器も別、洗濯も別。台所は時間をずらして使ってたみたいです。私が来ると、二人とも何事もないような顔をしてました」
タツヤはテープの線に沿って歩いた。畳の目に食い込むようにして、テープは部屋を正確に半分に分けていた。窓側がわずかに広い。数センチの差だったが、窓に近い分だけ光が入る。そちらが夫の側だった。
「離婚は考えなかったんですか」
「何度も言いました。でも二人とも聞かなかった。母は『出ていく場所がない』と言うし、父は何も言わなかった。黙ってこの線を引いたのは父の方です」
娘の声には疲労が沈んでいた。怒りではなく、長い年月をかけて冷え固まった諦めだった。
「処分は全部でいいですか」
「全部。テープも剥がしてください」
娘は階段を下りていった。タツヤは一人になった部屋で、仕分けを始めた。
衣装ケースの中身は季節ごとに分けられた衣類だった。丁寧に畳まれているが、どれも古い。本は時代小説が多く、しおりが挟まれたまま何冊かあった。読みかけのまま置かれたのか、読み終えてしおりを抜かなかっただけなのかはわからない。テーブルの引き出しには、薬の空シート、爪切り、ボールペンが一本。日記やメモの類はなかった。
反対側——妻の領域にも同じように目を向けた。触るなと言われていたが、見るだけなら構わないだろう。配置はほぼ鏡写しだった。テーブルの上に湯呑みが一つ、小さなラジオ、眼鏡ケース。衣装ケースが二つ。
夫の側に戻り、窓際の座椅子の周りを片付けていたとき、テーブルの下に何かが落ちていた。
老眼鏡だった。
安い、茶色いフレームの老眼鏡。テーブルの脚の影に隠れるようにして落ちている。拾い上げて位置を確認した。テーブルは夫の領域にあるが、老眼鏡が落ちていた場所は——テープの線を、わずかに越えていた。数センチ。妻の側に。
タツヤは老眼鏡をテーブルの上に置いた。
それから、反対側の妻のテーブルを見た。眼鏡ケースがある。妻には妻の眼鏡があった。この老眼鏡は夫のものだ。
しばらくそこに立っていた。
テープの線を見た。色の褪せた、まっすぐな線。定規で引かれた正確さ。二十年間、この線の上を誰も踏まなかった。踏む必要がなかったのか、踏んではいけなかったのか。
しかし老眼鏡は線を越えていた。
落としたのだろう。手が滑って、テーブルから落ちて、転がって、線の向こう側に止まった。それだけのことだ。物理の問題にすぎない。
タツヤはいつもなら、ここで物語を作る。娘に伝えるための、遺族が聞きたい種類の物語を。しかし今回は、すぐに言葉が出てこなかった。
二つの座椅子の距離を測った。テープの線を挟んで、直線距離で二メートルもない。この距離で、二十年。同じテレビを見ていた。夫が選んだチャンネルを、妻も見ていた。リモコンは夫の側に一つしかない。
混ざり合えば壊れる関係だったのだろう。タツヤにはわからない。だが、離れることもできなかった。離れたくなかったのか、離れる場所がなかったのか、それもわからない。ただ、この線があることで、二人は同じ部屋にいることができた。
線を引くことが、ここでは関係を断つことではなく、関係を持続させる方法だった。
階段を下りると、娘が台所に立っていた。タツヤは作業の報告をした。衣類、書籍、小物類、処分の段ボール四箱。
「あの線のことなんですが」とタツヤは言った。
娘が振り向いた。
「お父様の老眼鏡が、テープの向こう側に落ちていました」
娘は何も言わなかった。
「二十年間、あの線を越えなかったお父様の眼鏡が、数センチだけ向こう側にありました。それだけです」
タツヤはそれ以上は言わなかった。物語にしなかった。落ちていた、という事実だけを渡した。
帰り道、車を運転しながら、あの部屋のことを考えていた。考えまいとしたが、テープの線が頭から消えなかった。二人分の座椅子。二人分の湯呑み。一つのテレビ。
信号で止まったとき、ふと祝儀袋の団地を思い出した。あの部屋にも、一人分の茶碗と一人分の座布団しかなかった。あの老人は二十年前に時間を止めて、一人で暮らしていた。
同じ「一人」でも、あの団地とこの家はまるで違う。団地の老人は線を引く相手すらいなかった。マスキングテープの夫婦には、線の向こうに相手がいた。
タツヤはそのことの意味を、まだうまく言葉にできなかった。




