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  作者: タナベヒトシ
13/14

隣人

 美咲の部屋には、常に音があった。


 テレビは帰宅すると同時につける。チャンネルは何でもよかった。ニュースでもバラエティでも、音が部屋にあればいい。着替えながらスマートフォンを確認する。LINEの通知が三件、Instagramのいいねが七件。返信は後でまとめてする。シャワーを浴びている間も、脱衣所にスマートフォンを置いて音楽を流した。


 築十五年の軽量鉄骨のアパート。壁は薄い。越してきた最初の夜にわかった。隣の部屋から、かすかな音が聞こえる。規則的で、途切れない。時計の秒針のようだ。


 気になったのは最初の数日だけだった。自分の生活が始まると、すぐにその音は聞こえなくなった。聞こえなくなったのではなく、聞こえる隙間がなくなった。テレビの音、音楽、電話の声、ドライヤーの風の音。自分の出す音が部屋を満たすと、壁の向こうの秒針は沈んでいった。


 深夜にふと目が覚めると、それは浮かび上がる。暗い部屋で天井を見ていると、壁の奥から一秒ずつ、小さな音が届く。何も求めてこない音だった。返事もいらない。既読もつかない。ただ、等間隔に、同じ音が続いている。その音を聞きながら、いつの間にか眠りに落ちた。


 隣の住人の顔を、美咲は知らない。


 外階段ですれ違ったことはあるかもしれないが、記憶にはない。ポストは隣り合っていても、見るのは自分の郵便物だけだ。ベランダに洗濯物を干していると、隣のベランダが視界の端に入ることがあるが、物干し竿はなく、手すりには何もかかっていない。窓の白いカーテンだけがいつも閉まっている。美咲は自分の洗濯物に目を戻し、靴下のペアを探した。


 恋人は週に二度泊まりに来た。優しい人だった。美咲の話をよく聞き、疲れていればマッサージをし、冷蔵庫が空だと翌日には食材を買ってきた。


「もうちょっと頼ってくれていいんだよ」と、彼はときどき言った。


 美咲は笑って、ありがとうと言った。


 彼が泊まる夜は、テレビを消す時間が早くなる。二人で映画を一本見て、話をして、布団に入り、いつものように体を重ねた。悪いことは何もない。それでも彼が眠った後、美咲はしばらく起きていた。暗い部屋の中で、恋人の寝息が近い。肩の体温が触れている。壁の向こうからは、あの秒針が聞こえている。


 寝息と秒針の間に、美咲は自分の呼吸を置いた。どちらにも合わせていない。どちらにも邪魔されていない。この隙間だけが、誰のためでもない時間だった。


 一度、友人を三人呼んで鍋をした夜があった。十一時を過ぎても話は尽きない。笑い声が何度も上がる。ふと壁に目をやって、うるさくないだろうかと思った。


 翌朝。苦情や管理会社からの連絡はなかった。ポストにメモが入っているわけでもなかった。大丈夫だったのだと思い、少し安心した。同時に、安心した自分を不思議に思った。隣の住人が何を感じていようと、美咲の生活には何の影響もないはずだった。


 春に越してきて、夏が来て、秋になり、また春が来た。仕事があり、友人がいて、恋人がいた。LINEの通知は途切れず、既読がつき、返信が来て、また送る。画面の向こうには常に誰かがいた。壁の向こうについて考えることは、ほとんどなかった。


 ある朝、玄関を出ると、隣のドアの前に男が立っていた。


 作業着を着ている。足元に段ボールの束と、ガムテープと、工具のようなものが置いてある。鍵を開けようとしているところだった。


 目が合い、男は軽く頭を下げた。表情のない顔だった。美咲も小さく会釈を返して、外階段を下りた。


 帰宅したのは八時過ぎだった。隣のドアの前には何もない。段ボールもゴミ袋も出ていない。朝あれだけの道具を持ってきた男が、何も持ち出さずに帰ったことになる。不思議だったが、恋人からの着信に出たときにはもう薄れていた。


 それから何週間か経った。


 恋人が泊まりに来た夜だった。映画を一本見て、テレビを消し、布団に入った。彼はすぐに眠った。美咲は眠れなかった。


 仰向けのまま天井を見ている。彼の寝息。エアコンの低い音。遠くを通る車。冷蔵庫のコンプレッサーが止まり、しばらくして、また動き出す。


 それだけだった。


 何かが足りない。


 部屋の中の音を一つずつ確かめた。寝息。エアコン。冷蔵庫。車。


 壁の向こうの秒針が、ない。


 いつからなかったのかはわからない。一週間前からかもしれないし、もっと前からかもしれない。あの音がいつ始まったのかさえ曖昧だった。あったものがなくなったことを、なくなって初めて知った。


 壁を見た。暗がりの中で、壁はただの壁だった。


 あの男のことを思い出した。作業着と段ボール。何も持ち出さなかった男。


 隣に誰が住んでいたのか、知らない。何年、壁一枚を隔てて暮らしていたのかも正確にはわからない。


 苦情は一度も来なかった。鍋の夜も。電話で笑っていた夜も。


 彼が寝返りを打つ。温かい背中が腕に触れた。美咲は目を閉じた。彼の寝息が聞こえる。その奥に、秒針はもうない。

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