聞こえないもの
日常は変わらなかった。
仕事に行き、帰ってきて、テレビをつけて、シャワーを浴びて、ドライヤーで髪を乾かす。友人と電話をして、LINEに返信して、週末には誰かと会う。何も欠けていないはずだった。
ただ、テレビの音量を少しだけ下げるようになった。
いつからそうし始めたのか、自分でもわからない。気づいたときにはもうそうしていた。音量のバーが以前より二つか三つ低い位置にある。それで聞こえにくいということはない。ただ、自分の出す音が壁にぶつかって戻ってくるのが重たかった。以前はどこかへ抜けていた音が、今は部屋の中に溜まる。音量を下げると、わずかに隙間ができた。
ドライヤーを止めた後、すぐにテレビをつけなくなった。髪から水がぽたぽたとタオルに落ちる音を聞いている。壁の向こうからは何も聞こえない。聞こえるはずもなかった。それでも、ほんの数秒、動きを止めて耳を澄ませている自分がいた。
「最近ちょっと静かだね」と彼が言った。
日曜の朝だった。彼がコーヒーを淹れ、美咲はテーブルで頬杖をついている。テレビはついていなかった。
「そう?」
「前はもっと色々つけてた気がする。テレビとか、音楽とか」
美咲は曖昧に笑った。彼はそれ以上聞かなかった。代わりに、美咲の手に自分の手を重ねた。
「無理しないでね」
その言葉が、少しだけ重かった。無理はしていない。ただ音を下げただけだ。それなのに彼には、何かの徴候に見えたのだろう。美咲の変化を読み取り、意味を見つけ、心配という形にして差し出す。優しさだった。美咲にはそれがわかっている。
ありがとう、と美咲は言った。彼は安心したように笑った。
壁の向こうの秒針は、こういうことをしなかった。美咲を観察しなかった。変化を読み取らなかった。意味を探さなかった。ただ同じ速度で、同じ音を、繰り返していた。
別の夜。美咲がソファに座ってぼんやりしていると、彼が隣に来た。
「なんか考えてた?」
「ううん、別に」
「そう?」
彼はテレビのリモコンを取り、電源を入れた。音量が部屋に広がった。美咲が下げていたバーよりも、五つか六つ高い位置だった。
「あ、ちょっと大きいかな」と彼が言って、少し下げた。それでもまだ、美咲が一人のときの音量より高かった。美咲は何も言わなかった。
彼は悪気なく話し続けた。来週の予定のこと、職場の同僚のこと、美咲の好きそうな映画が始まること。美咲は相槌を打ちながら、彼の声とテレビの音が部屋を満たしていくのを感じていた。隙間がなくなっていく。さっきまでそこにあった静かな余白が、彼の声で丁寧に、隅々まで埋められていく。
優しい人だった。美咲のことを気にかけ、沈黙が続けば声をかけ、空白があれば何かで満たそうとする。それが彼の愛し方だった。美咲はそれを知っていて、感謝もしていた。
ただ、あの秒針がまだ聞こえていた頃、彼が眠った後の暗い部屋で、美咲が耳を澄ませていたのは彼の寝息ではなかった。壁の向こうの、あの等間隔の音だった。彼の隣にいながら、壁の向こうに耳を向けていた。そのことを、美咲は彼に言ったことがない。言う必要もないと思っていた。今もそう思っている。
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ある日、帰宅すると隣の郵便受けがテープで塞がれていた。翌週、ドアノブに黒い小さな箱がぶら下がっていた。
隣の住人が誰だったのか、知らないままだった。名前も、年齢も、いつから住んでいたのかも。管理会社に聞けばわかるだろう。彼に話せば、一緒に気にしてくれるだろう。しかし美咲はそのどちらもしなかった。知ったところで、あの秒針の音が何だったのかはわからない。知れば何かがわかるようになるとも思わなかった。
知らないままでいること。あの秒針と美咲の間にあったものに、最も近い態度のような気がした。
恋人にも話さなかった。話せば、あの秒針の音は「悲しい出来事」や「不思議な体験」に変わってしまう。美咲の中では、まだそういう形をしていなかった。形のないものを、形のないまま持っていたかった。
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二ヶ月ほどして、隣に新しい住人が入った。
引っ越しの気配で気づいた。階段を上がる複数の足音、段ボールを置く音、男の声が二つ。美咲は自分の部屋でテレビを見ていた。壁の向こうが賑やかなのは、ずいぶん久しぶりだった。
その夜。テレビを消して布団に入った。
壁の向こうから音が聞こえた。テレビだった。バラエティ番組の笑い声がくぐもって伝わってくる。低い声で電話をしているのも聞こえた。水道の音。ドアの開閉。
生活の音だった。人が暮らしている。壁の向こうに再び誰かがいる。
美咲は目を閉じた。テレビの声が壁を透かして届いている。前の隣人がいた頃には聞こえなかった種類の音だった。前の隣人の部屋からは、秒針以外の音が聞こえたことがなかった。テレビの音も、電話の声も、水道の音も。あの部屋は秒針だけで満ちていて、それ以外の何もなかった。
今、壁の向こうには生活がある。誰かの夕食があり、誰かの笑い声があり、誰かの一日の終わりがある。それは美咲の生活と似ていた。自分と同じ音を立てている人が、壁一枚の向こうにいる。
それなのに、安心しなかった。
バラエティの笑い声はうるさいとも思わなかったし、不快でもなかった。ただ、あの秒針とは違った。あの音が持っていた何かを、この音は持っていなかった。それが何なのかを、美咲はうまく言葉にできなかった。
翌日から、新しい隣人の生活音は日常の一部になった。朝、出かける足音。夜、帰ってくるドアの音。時々テレビ、時々音楽。普通の、どこにでもある生活。美咲も同じだった。同じように出かけ、同じように帰り、同じようにテレビをつけた。
以前も同じだったはずだ。壁の向こうに隣人がいて、美咲がいた。それだけのことだったはずだ。
しかし以前の隣人は、美咲と「同じ」ではなかった。あの部屋からはテレビの音が聞こえなかった。電話の声も、音楽も、水道の音も。ただ秒針だけが、美咲の生活とはまったく違うリズムで、同じ壁の向こう側に存在していた。
違うからこそ、そこにあった。同じ音を出す隣人は、美咲の部屋の延長のようだった。壁が消えたわけではない。しかし壁の向こうが自分と似ていると、壁自体が薄くなる。そしてその薄さは、美咲を安心させるどころか、どこにも境目がないまま自分が滲み出していくような感覚を呼んだ。
あの秒針は、壁だった。美咲とはまったく違うリズムで鳴っていた。だから美咲は美咲の側にいられた。
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秋になった。
ドライヤーを止めて、タオルで髪を押さえたまま立っている。壁の向こうからテレビの音が聞こえる。新しい隣人は夜型らしく、深夜でもテレビがついている。
美咲はテレビをつけなかった。暗い部屋で、壁の向こうの音を聞いている。それは誰かの生活の音であり、美咲に向けられたものではなかった。前の隣人の秒針も、美咲に向けられたものではなかった。どちらも同じはずだった。
同じではなかった。
テレビの音には意味がある。そこには人間の輪郭がある。感じ取れば、何かを返したくなる。あるいは返さなくてはいけない気がする。
あの秒針は、何も求めず、何も語らず、ただ時間を刻んでいた。何も読み取る必要がなかった。何も返す必要がなかった。
それが、いちばん楽だった。
楽だったと気づいたことが、美咲には少し怖かった。友人がいて、恋人がいて、LINEの通知が途切れない生活の中で、いちばん楽だったのが壁の向こうの秒針だったということ。名前も知らない誰かの、意味のない音だったということ。
壁の向こうでテレビのチャンネルが変わった。美咲は自分の部屋のテレビをつけなかった。タオルを洗面台に戻し、布団に入った。
目を閉じる。隣のテレビの音が、くぐもって届いている。その奥に、もう聞こえないはずの音を探している自分がいる。
見つからなかった。




