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  作者: タナベヒトシ
11/14

合わない時間

 封筒は事務所の机の上に置かれていた。社長が朝のうちに受け取って、タツヤの担当分として振り分けたものだった。


 茶封筒の中に、A4の書類が三枚。行政書士事務所の名前が印刷された送付状に、死後事務委任契約に基づく遺品整理の依頼と書かれていた。契約日は二年前。費用は前払い済み。依頼者は故人本人。


 送付状には死亡確認日と部屋の住所が記されているだけで、死因の記載はなかった。遺族の連絡先もない。備考欄に一行、「身寄りなし。残置物の確認および撤去を依頼する」とあった。


 タツヤは書類をクリアファイルに入れ、鞄にしまった。こういう案件はたまにある。身寄りのない人間が、自分の死後の始末を業者に託す。感傷はない。契約と料金が発生し、作業が終われば完了報告を行政書士に送る。それだけだった。


 部屋はワンルームのアパートの二階にあった。築十五年ほどの、どこにでもある軽量鉄骨の建物だった。外階段を上がり、鍵を開ける。行政書士から預かった鍵は新品のように滑らかだった。


 ドアを開けた。


 匂いがなかった。


 これまで何百という部屋に入ってきた。どの部屋にも匂いがあった。生活の匂い、食べ物の匂い、古い紙の匂い、薬の匂い、あるいは人が長く住んだことで壁や床に染みついた、名前のつかない匂い。団地の新聞の匂い。マスキングテープの家の、畳と線香の匂い。


 この部屋には、何の匂いもなかった。


 玄関から見渡せるほどの広さだった。左手にキッチン、正面にリビング、右手にユニットバス。カーテンは白い既製品で、日に焼けてもいなかった。フローリングの床には傷がない。


 家具がなかった。テーブルもない。椅子もない。布団もない。クローゼットを開けた。ハンガーが三本、等間隔に掛かっている。何も掛かっていない。棚には何もない。


 キッチンに移った。シンクは乾いている。コンロの五徳は新品のように綺麗だった。冷蔵庫はなかった。冷蔵庫を置くためのスペースだけが、壁と床の色の違いでわかる。食器棚もない。引き出しを開けた。空だった。


 ユニットバスを確認した。シャンプーやボディソープのたぐいはない。鏡に水垢もない。排水口の蓋を持ち上げてみた。髪の毛一本なかった。


 タツヤは玄関に戻り、靴を脱いだ場所に立った。段ボールを組み立てるために持ってきた道具一式が、自分の足元に置かれている。段ボールの束、ガムテープ、油性ペン、軍手、ゴミ袋。いつもの装備だった。しかしこの部屋では、何一つ使う必要がない。


 故人は全てを自分で片付けていた。遺品整理業者を呼ぶ必要がないことを、本人が一番わかっていたはずだ。前払いまでして、契約まで結んで、それでも業者を呼んだ。


 タツヤは部屋の中央に立った。窓からの光が白いカーテン越しに入り、何もないフローリングの上にぼんやりとした四角を作っている。


 そのとき、壁に時計が掛かっていることに気がついた。


 安価なプラスチックの丸い時計だった。白い文字盤に黒い数字。秒針が動いている。一秒ずつ、正確に刻んでいる。何もないこの部屋の中で、その音だけが聞こえた。


 タツヤは自分の腕時計を見た。午前十時十二分。壁の時計を見た。午後三時四十七分。


 五時間以上ずれている。


 近づいて見た。電池カバーを指で触った。ほんの少しだけ浮いている。最近替えられた形跡がある。電池が切れたから替えたのだ。時間を動かし続けるために。しかし時刻は合わせなかった。


 タツヤは時計の前に立ったまま、秒針の動きを目で追った。


 この人は全てを捨てた。冷蔵庫も、布団も、服も、シャンプーも、排水口の髪の毛さえも。この部屋に自分がいた痕跡を、一つ残らず消した。


 なのに、この時計だけは残した。


 なぜ。


 タツヤはいつものように物語を組み立てようとした。祝儀袋の部屋でやったように、マスキングテープの家で途中までやったように。遺品を手がかりにして、死者の人生を一つの筋書きに仕立てる。


 ——社会の時間から降りた人だったのだろう。正しい時刻に合わせることをやめ、自分だけの時間を生きていた。静かな反抗。あるいは静かな自由。


 すぐに否定した。それは美しすぎる。


 ——ただ合わせる気力がなかっただけではないか。電池を替える習慣だけが残り、時刻を修正する動機は失われていた。惰性で動き続ける時計は、彼の生活そのものの比喩だった。


 それも否定した。比喩にしてしまえば物語になる。物語にしてしまえば、この人はタツヤの言葉の中に閉じ込められる。


 ——この時刻そのものに意味があるのか。午後三時四十七分。誰かとの約束の時間。何かが起きた時間。何かが終わった時間。


 わからなかった。調べる手段もなかった。死因すら書かれていない書類の向こうに、この人の人生があった。タツヤの手には届かない。


 秒針が動いている。一秒、一秒、一秒。何もない部屋に、その音だけが反響している。


 ふと、団地のカレンダーのことを思い出した。二十年前の四月。桜の写真。めくられなかった月。あのときタツヤは何も感じなかった。止まった時間をただ眺めて、段ボールに「処分」と書いた。


 あのカレンダーも、ずれた時間だった。世界が二十年先に進んでいる間、あの部屋だけが四月のままだった。しかしタツヤはそのことに何の意味も見出さなかった。祝儀袋を「お年玉かもしれません」と語ったときでさえ、カレンダーのことは素材にもしなかった。


 同じものを見ていたのに、何も見ていなかった。


 そして今、この時計の前に立っている。動き続ける時計と、止まったカレンダー。どちらも世界の時間からずれている。しかし時計は動いている。誰かが電池を替え続けていた。ずれたまま、それでも動かし続けることを選んだ。


 タツヤは窓際に移動し、カーテンを少し開けた。アパートの駐車場が見える。向かいに別のアパートがあり、そのベランダに布団が干してあった。生活の気配がある。この部屋の窓からも、その気配は見えていたはずだ。


 そう思った瞬間、タツヤは自分がまた物語を作っていることに気がついた。


 この人が誰かに来てほしかったかどうか、タツヤにはわからない。「来てほしかった」という解釈は、タツヤ自身が必要としている物語かもしれなかった。何もない部屋に意味を見出したいのは、この部屋の主ではなく、タツヤの方だ。


 マスキングテープの家で、老眼鏡の位置に意味を感じたのも同じだった。あの線が「壊れないための距離」だったかもしれないと思ったのは、タツヤが勝手にそう読んだだけだ。夫婦の本当の関係を、タツヤは知らない。


 祝儀袋の「お年玉」も。


 全部、タツヤの物語だった。


 沈黙は、物語に上書きされる。


 タツヤは自分の部屋のことを考えた。ワンルーム。ベッドと机と、最低限の家具。本はない。写真もない。壁には何も掛かっていない。この部屋と似ている、と思った。しかしこの部屋と決定的に違うのは、タツヤの部屋には時計すらないということだった。


 この人は時計を残した。ずれた時間であっても、動き続ける何かをこの部屋に残した。タツヤの部屋には、動いているものが何もない。タツヤが出かけている間、あの部屋ではただ空気が停滞している。


 他人の分断ばかり見てきた。親と子の断絶、夫婦の境界線、そして誰とも繋がらなかった人間の空白。それらを物語にして、遺族に手渡してきた。


 しかしタツヤ自身には、断絶する相手がいなかった。隔たりを感じる相手がいなかった。線を引く相手も、線を引かれる相手もいなかった。想像力は隔たりの向こうにいる誰かに向かって働く。しかしタツヤの周りには、向こう側がなかった。


 部屋の中央に戻った。何もない床の上に、道具一式が置いてある。段ボール、ガムテープ、油性ペン。使わなかった。


 報告書を書かなくてはならない。クリアファイルから用紙を取り出し、ボールペンで記入した。住所、作業日、作業時間。残置物の欄に「なし」と書こうとして、ペンが止まった。壁の時計を見た。秒針が動いている。


 「なし」と書いた。


 道具をまとめ、玄関に向かった。靴を履き、ドアノブに手をかけた。振り返った。


 時計が動いている。午後三時五十二分。現実の時間とは何の関係もない数字が、一秒ずつ進んでいる。


 タツヤは時計を外さなかった。止めなかった。持ち帰らなかった。報告書には「なし」と書いた。時計はここにある。しかし報告書には「なし」と書いた。


 ドアを閉めた。外階段を下り、駐車場に向かった。車に乗り、エンジンをかけた。バックミラーにアパートの外壁が映っている。二階の、白いカーテンの窓。あの向こうで、誰にも合っていない時間が刻まれている。


 タツヤはギアを入れ、駐車場を出た。

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