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  作者: タナベヒトシ
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作れない話

 依頼主は妹だった。姉が亡くなった、一人暮らしだった、と電話で言った。声は落ち着いていたが、語尾が少しずつ短くなっていった。


「立ち会われますか」


「はい。行きます」


 木造のアパートの二階だった。日当たりのいい角部屋で、玄関のドアを開けると、すぐに生活の匂いがした。食べ物と洗剤と、どこか甘い匂い。線香ではない。何かの花だろうか。


 妹は四十代の後半に見えた。玄関で靴を脱ぎ、部屋に入ったが、廊下の途中で立ち止まった。


「すみません、少し——」


「ごゆっくり」


 タツヤは先にリビングに入った。


 六畳のフローリングに、小さなソファと丸テーブル。テーブルの上にマグカップが一つ。中にコーヒーの輪染みが残っている。ソファの横に雑誌が三冊積んであった。一番上は料理の雑誌で、付箋が何枚か貼られている。二冊目は旅行誌。三冊目は園芸。どれも最新号ではないが、古くもない。


 キッチン。冷蔵庫の扉にマグネットが四つ。動物園のパンダ、水族館のペンギン、どこかの温泉地の木彫り、それから名前の入っていない無地のマグネット。冷蔵庫は電源が抜かれていた。中に何も入っていないが、棚の位置から推測できることがある。上段の仕切りが狭い間隔で並んでいる。小さな容器をたくさん入れていたのだろう。


 食器棚。茶碗が二つ、皿が八枚。大小さまざまで、柄もばらばらだった。揃いのセットではなく、一枚ずつ気に入ったものを買い足していったように見える。奥にワイングラスが二脚。一脚だけ、ふちに小さな欠けがあった。


 タツヤは段ボールを組み立てた。油性ペンで「食器」と書いた。仕分けを始めた。


 手は動いた。物を一つずつ確認し、新聞紙で包み、段ボールに入れる。いつもの手順だった。引き出しを開けた。箸、スプーン、フォーク。栓抜き、缶切り、計量スプーン。どれも使い込まれていたが、引き出しの中は整頓されている。


 寝室に移った。セミダブルのベッドに、花柄のカバー。枕元にスタンドライトと文庫本が一冊。しおりが挟んであった。七十三ページ。読みかけのまま、もう開かれることはない。


 クローゼット。服が隙間なく並んでいた。左から右へ、薄い色から濃い色に並んでいる。ハンガーの間隔が均一だった。


 洗面所。歯ブラシが一本。化粧品が棚に並んでいた。化粧水、乳液、日焼け止め。口紅が三本、色が違う。


 タツヤは洗面所を出て、リビングに戻った。


 妹が廊下からリビングに入ってきていた。丸テーブルの前に立って、マグカップを見ていた。


「すみません、お待たせしました」


「いえ」


 仕分けを再開した。妹はソファに座らず、部屋の隅に立っていた。タツヤが物を一つ手に取るたびに、視線がそちらに動くのがわかった。


 この部屋には、物語の素材がいくらでもあった。


 料理の雑誌の付箋。作りたかった料理があった。ワイングラスの欠け。それでも捨てなかった。色のグラデーションで並んだ服。日々を自分の美意識で整えていた人。読みかけの本。七十三ページで止まった時間。


 どの物からでも、一つの像を結ぶことができた。この人はこういう人だった。こう暮らしていた。こういうことを大切にしていた。


 手が止まった。


 段ボールの中に、新聞紙で包んだ食器が並んでいる。タツヤはその上に次の皿を置こうとして、そのまま動かなくなった。


 皿だった。白地に青い縁取りの、小さな平皿。表面に細かい貫入が走っている。使い込まれた皿だった。何百回も洗われ、何百回も食卓に出された皿。それだけだった。


 祝儀袋を見つけたとき、タツヤは「お年玉かもしれませんね」と言った。あの言葉は息子に届き、息子は子供たちに渡し、子供はコンビニに走っていった。物語が人を動かした。


 マスキングテープの家では、老眼鏡がテープの向こう側に落ちていたことを娘に伝えた。事実だけを渡した。しかしその事実の選び方がすでに物語だった。


 編みかけのマフラーを「息子さんに編んでいたのかもしれませんね」と言ったとき、自分の声を聞いた。あの声を、タツヤは覚えている。


 全部、嘘だった。嘘ではないかもしれない。しかし本当でもなかった。祝儀袋がお年玉だったかどうかは誰にもわからない。老眼鏡が「越えた」のか「落ちた」のかも。マフラーが息子のためだったかどうかも。


 それを知っていて語った。知っていて、語ることに意味があると思っていた。


 今、この皿を手に持っている。白地に青い縁取り。使い込まれた皿。この皿から何かを読み取り、妹に伝えることはできる。「お姉さまは食器を大切にされていたんですね」。あるいはもう少し踏み込んで、「一枚ずつ選んでいたみたいですね。お気に入りだったんじゃないでしょうか」。


 言葉は出てこなかった。口が動かないのではなかった。言葉はあった。いくらでもあった。しかしそのどれを口にしても、この皿がこの人の手の中にあった時間には届かないということが、はっきりとわかった。


 皿を段ボールに入れた。


 仕分けを続けた。雑誌。衣類。寝具。小物。どの物にも、この人が触れた痕跡があった。そしてどの痕跡からも、タツヤは何も汲み上げなかった。汲み上げようとしなかった。手が拒んでいた。


 夕方近くになって、作業が終わった。段ボール七箱。タツヤは箱の数を数え、ペンで番号を振った。


 妹がソファの前に立っていた。作業の間ずっと、部屋の隅に立っていた。


「ありがとうございました」とタツヤは言った。


 妹は頷いた。それから少し間を置いて、口を開いた。


「姉は——どんなふうに暮らしていたんでしょう」


 前にも聞かれたことがある。マンションの三階の姪。あのときは「丁寧に暮らしていた方だと思います」と答えた。嘘ではなかった。しかしあの一語がどこにも届かなかったことを、姪の小さな頷きで知った。


 妹の目を見た。待っている顔だった。怒りでも悲しみでもなく、ただ待っている。


「わかりません」


 とタツヤは言った。


 妹は何も言わなかった。


「部屋を見て、物を触って、一日ここにいました。でも、お姉さんがどんなふうに暮らしていたかは、わかりませんでした」


 妹はタツヤを見ていた。表情が変わらなかった。怒っているのでも失望しているのでもなかった。ただ、聞いていた。


「すみません」


 タツヤはそう言って、頭を下げた。


 妹は少しの間黙っていた。それからマグカップを手に取った。コーヒーの輪染みが残ったマグカップを、両手で包むようにして持った。


「これ、もらってもいいですか」


「もちろん」


 妹はマグカップを自分の鞄に入れた。タツヤには何も言わなかった。タツヤも何も言わなかった。


 アパートを出て、車に乗った。エンジンをかけた。ハンドルに手を置いた。


 あの部屋には、物語がいくつもあった。語れる材料は揃っていた。以前の自分なら語った。語って、遺族に手渡して、車に乗って、牛丼を食べて、次の現場に行った。


 今日は何も語らなかった。語らなかったことが正しかったのかどうかもわからなかった。妹はマグカップを持って帰った。


 それでよかったのだと思おうとした。思えなかった。


 ギアを入れた。駐車場を出た。いつもの道を走った。チェーンの牛丼屋が見えた。通り過ぎた。


 家に帰った。靴を脱いで、台所で水を飲んだ。ワンルームの部屋を見渡した。ベッドと机。それだけの部屋。写真もない。本もない。壁には何も掛かっていない。


 あの部屋の女性は、一枚ずつ皿を選んでいた。服を色で並べていた。本に付箋を貼り、マグネットを冷蔵庫に貼り、ワイングラスの欠けを許していた。六畳の部屋を、自分の手触りで満たしていた。


 タツヤの部屋には何もなかった。あの空の部屋と似ていると以前は思った。しかし違った。あの人は全てを自分で消した。タツヤの部屋には、消すものが最初からなかった。

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