第67話 それは、きっと
第67話 それは、きっと
……ある日の夕食後、晩酌中の姉貴と何気ない会話をしていたときだった。
日本酒に大玉の氷が入ったグラスをカランカランと揺らしながら、姉貴は突然話し始めた。
『どうして、人間ってのは相手に都合の良いところばかり求めるのかしらね?』
続けて姉貴はさっきの田本のように、人間は都合の良いところばかりを見すぎだとか、そんなの相手の押し付けだとか、お酒の力を借りているからか、いつもより余計に会社の愚痴なり社会に対する不満なりで白熱していた。
そのときの俺は、「ああ、会社で嫌なことがあったんだな」程度に軽く受け流していたのだが、今思えば、あのとき彼女が話していた内容とさっき田本が話していた内容はほぼ同じだった気がした。
しかし、彼女は社会人である。ある程度の建前と本音は使い分けねばならないと自負していた上で、ただ一点、田本とは違う言葉を言っていたのを思い出した。
『……だけどね、なーくん。こんな思いをしてもいいのはね、大人からでいいの』
子供のうちはこんなこと気にしなくていいんだからね、そう言った彼女は、遠くを見つめるようにテレビを眺めていた。
笑い声が響く番組を見つめるその目に、彼女は何を映していたのだろうか、俺には分からなかった。
気にしなくていいのならなぜ俺に話したんだ、と疑問に思っていた。彼女はまっすぐそれを見つめたまま、感傷に浸るように静かに口を開いた。
『……周りに流されて作られた自分のせいで、両親ですら、友達にすら甘えられなくなる。そんなのって、あまりにも残酷すぎるものよ』
『自分を見失っちゃうんだよって、私はね、ある人にそう怒られちゃったの。』
そう言いながら笑う姿は、何故か嫌そうな表情ではなかった。彼女は頬杖をついて続けた。
『私ってこの家の長女だし、なーくんのお姉ちゃんでもあるわけでしょ?だから、お姉ちゃんだからしっかりしないと、とか、両親の代わりになーくんの面倒を見てあげなきゃとか、
そう思い込んでたらね、周りは凄い偉いだなんて、勝手に褒め称えて大げさに賞賛してさ、自然と私もそれが当たり前になっちゃってたのね』
だから、かなあ。と彼女は優しく微笑んだ。
『その人には、見透かされていたのかもしれないね、その時の私がどんな状況だったのか』
まるで自分の愛しい人にでも言われたかのように、その表情はとても穏やかだった。
きっと、それほどまでに彼女にとっては大事な人からの言葉だったのだろう。
『でもね、悪いことばかりじゃなかったの。そのおかげで私があるし、一概に悪いとは言えないの。』
そう言ってお酒の入ったグラスを一口飲んだ。カランと日本酒に溶かされた氷が脆くも凛とした音を響かせた。
『だから、誰のせいにもできなかった。それを受け入れたのは自分なのだから』
その言葉はいつもの彼女らしくない、とても重苦しい言葉に聞こえた。
それに対して俺が何も言えないでいると、『……えへへー、なんてね』と笑うとまた一口お酒を口にした。
『でも、私はなーくんがいてくれたから、頑張れたんだよ。なーくんが、私のことあーだこーだ決め付けないで見てくれてるからさ。
おうちに帰ったら、なーくんが温かいご飯を作って待ってくれてて。私がどんなに辛いとか苦しいとか言っても、私のことを否定しなかったでしょ?
誰かに何を言われようと、私のこと、ちゃんと私として見てくれたでしょ?なーくんが、姉貴は姉貴なんだからって言ってくれたの、私、すごく嬉しかったんだぁ……』
そこまで言うと、酔いが回ったのか、テーブルにうつ伏せになってそのままぐっすり眠ってしまっていた。
結局この人が何を言いたかったのかなんて、あのときの俺には分からなかった。いつも唐突に話が始まって、ちゃんと終わらないんだから本当に苦労してる。
それなのに、このときは彼女のその姿を見るだけで胸が締め付けられる思いでいっぱいだった。姉貴の言葉に俺自身が動かされたかのように呟いていた。
『……当たり前じゃん、家族なんだから』
ばか姉貴。そう言って俺は、彼女の頭を優しく撫でた。
……だから、なんとなくだけど、今の田本に対して言わなきゃいけない言葉は分かっていた。
「……田本」
「なに?」
「お前が誰に何を言われてるとか、それがどうとか、俺にはまだよく分かんないけどさ……」
まだこの言葉には慣れない。だから、ちょっと照れくさくて少し目を逸らしてしまう。
「お前をそういう風に見ないのは、当たり前じゃん。俺らは……友達なんだから」
やっぱり、この言葉には慣れない。口の中がむずむずするような感覚が残る。いい加減慣れないといけないのにな……。
もしかしたら、らしくない言葉だったかもしれないと恐る恐る田本の顔を見ると、彼は驚いたような顔をしたあと、めいっぱい柔らかな笑みを浮かべた。
俺が言った言葉を噛み締めるように、何度も何度も頷いたあと、小さく「……ありがとう」と言った。何かを大事そうに抱えるように、彼は小さく自分の手を握っていた。
「あーあ、泣かせにくるねぇ、すずめくん。演技はピカイチで下手なんだけど」
そう、雰囲気をぶち壊すかのように、ハンカチを出して泣き真似をしながら俺の肩を組んで絡んできた。
「ちょっと、重いんだけど……ってか、演技は下手ってなんだよ!」
「ええ?友達って言うとき、噛みそうになってたの俺は見逃さなかったよ~?」
「ばっ……!!ばっかお前……!」
「あれは言い慣れてない証拠だったね、俺には分かるよ~?」
「だああああ、そういうこと言うなっての!」
「あっはは!ちょ、ちょっと待って、二人とも面白すぎ!」
俺らと坂田のやりとりが相当面白いのか、涙が出るくらい腹を抱えて田本は笑っていた。
その反応に俺は些か納得が出来ない心境であったが、まあ、田本がいいならいいか、と俺も思わず笑ってしまった。
と、その後ろから、重圧がかかり、「のわぁ!」と坂田共々それに潰されそうになった。俺ら二人に寄りかかるようななんとも無礼な人物は一人しかいなかった。
「えーなになにー?!俺抜きで楽しいことしてるのずるすぎるんですけどー!!俺も混ぜろー!!」
と、待ってましたと言わんばかりに、仁都は耳元で叫んできた。うるさい、と俺と坂田が口を揃えて言うと、そんなー!!と言って口を尖らせた。
その光景を見た田本がまた笑いだして、それにつられて全員で笑ってしまった。季節はずれの夕暮れにその笑い声は心地よく乗って響いていたのだった……。
実は、仁都はずっと前から玄関先にいて、俺らの話を聞いていたりいなかったりした話を彼から聞いたのはもう少し後になってからであったりする……。
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初めて田本を見たとき、姉貴となんとなく似ていたように思ったのは、多分、彼も彼女と同じように、自分が【それ】を演じなきゃいけないと思っているように見えたからだ。
【それ】の内容は二人とも違っているけど、二人ともそれを自分で受け入れているから苦しんでいるんだと思う。
「嫌だ」の一言も言えない状況下で生きてきて、その言葉自体も忘れてしまうくらいに自分の首を自分で絞めていたんだろう。
だからこそ、人を信用できなくて、誰にも甘えられないでいた。だけどその中で、少しでも自分を見てくれる友達や家族がいるからやっていけるんだと思う。
彼らは、完璧であって完璧ではないのだ。もしかしたら、一番人間らしいのは彼らなのかもしれない。
「……ただいま」
……もし、俺に出来ることがあるとすれば、彼らのそばに寄り添っていきたいと思ったんだ。
「……姉貴ー。今日の晩御飯、何が食べたい?」
そう尋ねると、リビングのほうから威勢の良い声で「ハンバーグ!」と返ってきた。俺はその言葉に思わずクスッと笑った……。




