七針目『誰も知らない名前』
「始まったな」
男子生徒の声が、教室の奥で響く。
ドン!!
扉が激しく揺れる。
外側から、何かが叩いている。
クラスメイトたちの悲鳴が重なる。
「な、なんなんだよこれ!」
「先生!!」
教師は動かなかった。
窓の外を見たまま、まるで人形みたいに固まっている。
ドン!!
また衝撃。
扉の蝶番が軋む。
空木は息を呑みながら、後ろの窓際を見る。
あの男子生徒は、頬杖をついたまま動かない。
騒ぎの中で、彼だけが異様に落ち着いていた。
「お前……誰なんだ」
男子生徒は少し考えるように目を細める。
「名前?」
「……は?」
「それ、まだ必要なんだ」
意味が分からない。
男子生徒は立ち上がる。
夕焼けが背中を赤く染めていた。
「じゃあ質問変える」
彼は静かに笑う。
「空木。お前、このクラス全員の名前言えるか?」
教室が静まった。
空木は眉をひそめる。
何を言ってるんだ。
そんなの当たり前だろ。
クラスメイトなんだから。
そう思った瞬間。
頭の中が、真っ白になった。
「……え」
最前の席の男子。
名前が出てこない。
窓際の女子。
思い出せない。
さっき泣いていた女子生徒も。
名前が。
分からない。
空木の喉が乾く。
「なんで……」
教室を見渡す。
毎日顔を見ているはずなのに。
誰一人として、名前が出てこない。
「嘘だろ……」
心臓が早鐘みたいに鳴る。
男子生徒が、小さく笑った。
「そういうことだよ」
「……何が」
「ここは、“記憶”で出来てる」
その瞬間。
──ジジッ。
激しいノイズ。
空木の視界がぶれる。
知らない教室。
血まみれの机。
泣いている誰か。
夕焼け。
燃えている校舎。
一瞬だけ、別の景色が流れ込んでくる。
「っ……!」
空木は頭を押さえる。
男子生徒は静かに続けた。
「だから曖昧なんだ」
ドン!!
扉が大きく歪む。
クラスメイトたちが悲鳴を上げる。
でも男子生徒は振り返りもしない。
「本当に大事だったものだけが残る」
彼はそう言って。
前の席の彼女を見る。
その瞬間。
空木は初めて気づく。
自分は。
彼女の名前を知らない。
毎日話しているのに。
ずっと近くにいたのに。
名前を、一度も聞いていない。
空木の背筋が冷える。
彼女は俯いたまま、小さく呟いた。
「……思い出さなくていいのに」
その時だった。
バキッ!!
扉に大きな亀裂が走る。
外から黒い指が入り込んできた。
人間の指じゃない。
細長く、異様に黒い。
教室中が悲鳴に包まれる。
だが。
空木は動けなかった。
頭の中で、ひとつの疑問だけが響いていた。
──この教室で。
自分は、本当に誰を知っていたんだ?




